池田由之は天正5年(1577年)に尾張国の犬山に生まれる。父は紀伊守之助(ゆきすけ)である。
父、之助は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで池田信輝(之助の父)とともに戦死
する。之助戦死の時に、嫡男由之は8歳であった。池田家の家督は父、之助の弟輝政が相続す
ることになる。しかし、由之は本来池田家の嫡流であった。
輝政の引き立てもあって、由之は慶長6年(1601年)には2万2千石を賜り、慶長12年に駿
河御普請役(するがごふしんやく)を勤めた際に、徳川家康から馬を拝領している。慶長14年には、
加増されて3万2千石となり、備前下津井に在城する。慶長18年に池田輝政が死に、嫡男利隆
が家督を継いだことにより、下津井から明石へ移る。元和2年(1616年)に利隆が死に、嫡男
光政が家督を継ぐが、元和3年に因幡伯耆へ国替えとなる。由之も明石から米子城に入ること
になる。
元和2年には、利隆のみならず筆頭家老の伊木忠繁も死んでおり、幼い光政を補佐できる者
は由之以外にはいなかった。由之は、伊木氏に次ぐ家老でもあったため、元和2年から4年に
かけて由之が藩政の中心であった。
元和4年、由之は大小姓(おおごしょう)神戸平兵衛の恨みをかい、江戸から国元へ帰る途中で
刺殺される。
由之の死に伴い、嫡男由成(よしなり)が知行3万2千石を相続する。由成は、由之と徳島藩
主蜂須賀(はちすか)家政の娘との間に生まれた。由成は、父由之の後を継いで光政の許で家
老となる。光政が備前に国替えになった時に、天城陣屋を任されたのは由成であった。
由之の次子由英(よしてる)は、徳島藩家老となる。蜂須賀家政の子至鎮(よししげ)が若死した
ため、家政の孫、至鎮の子である忠英(ただてる)が家督を継ぎ、家政は後見役を幕府から命ぜ
られる。家政は外孫由英に忠英を補佐させる。由英は、初め池田氏であったが、蜂須賀氏を名
乗ることを許された。蜂須賀山城とも呼ばれる。
由之の第四子之政(ゆきまさ)は、鳥取池田家の家老になる之政は元和3年米子に生まれ、兄
由成とともに光政に従って寛永9年に備前へ移る。若くして畿内を遊歴していたが、正保元年
(1644年)に鳥取藩主池田光仲に招かれ、光仲に仕えることになる。
池田光仲は幼くして池田光政との国替えで鳥取へ移るが、光仲の鳥取池田家では池田輝政の
母の実家である荒尾氏の力が強く、他の家老たちも池田家一門ではなかった。このような状況
下で光仲が、池田家の嫡流である之政を招いたのは、他の家老たちとの力の均等を意図したた
めだと考えられる。之政の母は蜂須賀家政の娘かどうかはっきりしないが、光仲の母が蜂須賀
至鎮の娘であることは見逃せない事実である。
このように、池田由之の子息3人は、岡山、鳥取、徳島の各藩で家老となったのである。
【参考文献】
「因州藩鳥取池田家の成立」(河手龍海著 鳥取市教育福祉振興会 昭和56年)
「寛政重修諸家譜」(続群書類従完成会)
「国史大辞典」(吉川弘文館)
「池田光政公伝」(石坂善次郎編輯)
「池田家履歴略記」(日本文教出版株式会社)
「鳥取藩史」(鳥取県立鳥取図書館 昭和44年)
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(『岡山県総合文化センターニュース』No.432号、H14年、3月)
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