寂 厳じゃくごん

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  寂厳は江戸時代中期のころ、仏教の原点に立ち返って、その正しいあり方を追及した悉曇[しったん]学の学者である。

  悉曇とは梵語
[ぼんご](古代インドのサンスクリット語)のこと。釈迦の教えは弟子たちによって梵語の経典にまとめられ各地へ伝えられたが、わが国に入ったのは 中国で翻訳された漢字による経典で、漢文に翻訳できない語は梵語のまま取り入れられたものであった。

  寂厳は元禄一五年(一七〇二)に、備中足守藩士の子として生まれた。

  九歳の宝永七年(一七一〇)吉備津宮(現吉備津神社)の社僧普賢院
[ふげんいん](真言宗)の超染[ちょうぜん]真浄に弟子入りし、十一歳の時正式に 出家して諦乗寂厳と名乗った。

  寂厳の悉曇との出会いは、寂厳が真言宗の僧として出家したことにあった。真言宗で即身成仏のため唱える 「真言」は梵語の呪文で、梵字で記されている。

  また、超染の師浄厳
[じょうごん]が平安時代以来絶えていた悉曇の研究を再興させた学者であったことも、寂厳を悉曇の研究に向かわせる要因であったと考えられている。
寂厳画像(部分)
(宝島寺蔵)
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  寂厳は十九歳の時、窪屋郡沖村(現倉敷市沖) の円福寺の住職になった。

  二十六歳の時にはここ円福寺で初めて悉曇の講義を行なっている。

  三十四歳の時、地方における学問の限界を感じた寂厳は畿内地方へ遊学し、三十五歳の元文元年(一七三六)当時悉曇の学僧として名高い京都五智山蓮華寺の曇寂に入門して本格的に悉曇を学び、五年にわたる曇寂[どんじゃく]のもとでの勉学の後、寛保元年(一七四一)備中連島の古刹[こさつ]宝島寺の住職となった。

  宝島寺は現在の連島町矢柄にある真言宗の寺院(山号矢上山[やあがりさん])で、寺伝によると、貞観元年(八五九)理源大師聖宝によって開かれたという。古代から中世のころには広大な寺域を持ち、多数の塔頭[たっちゅう]を有したと考えられるが、天正のころ(十六世紀後期)、戦火で全山を焼失し、江戸時代には寺領十五石、阿弥陀院・真如院・慈眼院の三院および末寺十寺に縮小されていた。

  寂厳は衰微していた宝島寺の復興に努め、宝島寺の中興の祖とされているが、この宝島寺住職時代に梵語について多くの著作を著した。その数はおよそ百種におよぶといわれる。

  その著作は梵語の文法や音韻[おんいん]が中心で、『梵漢助字合会[じょじごうえ]』『梵漢阿弥陀経[あみだきょう]大観』『大悉曇章稽古録[けいころく]』『悉曇字記大観』『梵本弥陀経私記』・『梵字心経私記』などがある。

  また、この時期、地元をはじめ堺・京都・高松・和歌山などへも出向いて精力的に悉曇の講義を行なった。

  詩文にも優れ、多くの著作を残しており、宝島寺に伝来する寂厳の関係資料は平成3年岡山県の重要文化財に指定されている。

  明和四年(一七六七)寂厳は宝島寺を高弟の文敞[ぶんしょう]に譲り、倉敷村の玉泉寺へ隠退、学問に専念し、四年後の明和八年(一七七一)ここ玉泉寺で示寂した。享年七十歳。

  寂厳は江戸時代を代表する悉曇の学僧であったが、また良寛、明月[みょうげつ]、慈雲[じうん]とともに近世の「四大書僧」と呼ばれ、書の名手として知られた。

  今も寂厳の書の愛好者は多く、寂厳の名は悉曇の学者というより書家として有名である。

  当館で閲覧できる関係図書もその書を集めた図録類が多い。

  『寂厳遺墨集』二種、『寂厳書譜』などがそれである。また寂厳の生涯を紹介した著作では、渡辺知水の『僧寂厳』がもっともまとまったもので、出生から普賢院、円福寺、宝島寺、玉泉寺時代と、時代を追って寂厳を紹介し、仏徒寂厳、書家寂厳のほか、著作・師弟交友・詩文など寂厳の全貌に触れている。

  また『倉敷市史』第九巻第九十三章にも寂厳関係の資料が多数収録されて必見の資料といえる。

  このほか、宝島寺内「寂厳顕彰会」が刊行した『寂厳和上著作集』第一集、 第二集、「宝島寺古文書研究会」発行の『寂厳和上資料集』第一集がある。

『岡山県総合文化センターニュース』No.406、H10,7

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