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安土桃山時代の武将で、通称金吾中納言、また、羽柴秀俊。 秀吉の正室・北政所の兄木下家定の子で、秀吉の養子となったが、のち、小早川隆景の養子となる。朝鮮再出兵の際には総大将として軍功を立てた。 関ヶ原の戦では徳川方勝利の因を作り、その功によって備前・美作に50万石の大領をうけ岡山城主となり、岡山城の城郭を補修し二十日堀を作るなどした。また、名を秀詮と改めたことにより、岡山中納言と呼ばれた。慶長七年に二十一歳で死去し、嗣子がなかったため断絶するに至った。 菩提寺は岡山市の瑞雲寺。 |
【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】
「岡山市史」第二巻(岡山市役所、昭11) 「備前藩宇喜多小早川池田史談」(荒木祐臣、日本文教出版、昭51) 「小早川秀秋」(原正三、昭51)<倉敷春秋>16号 「金吾中納言の生涯」(片山亨、昭60)<岡山経済>第8号91号 |