小早川 秀雄こばやかわ ひでお


 小早川秀雄の名前はよく知られているとは言いがたいが、岡山県の歴史や地誌を研究する者にとっては忘れられない人物の一人である。
 小早川秀雄は享和2年(1802)、足守藩士吉田源五兵衛方行(かたゆき)の二男として生れた。母は古川古松軒の妹の娘で吉田家へ嫁した八重と思われる。
 古松軒は姪八重を殊の外かわいがった。その様子は、たとえば塚本吉彦が紹介した「古川古松軒の消息」(『吉備史談会講演録』所収)などにうかがうことができる。八重は和歌を詠み、文章にも優れた女性であった。
 小早川秀雄は幼名を久米之丞といったが、のち太平太と改め、晩年は隼人と称した。号を天柱という。木下藩士土肥氏の養子となり、同家を相続したといわれる。しかし、足守藩木下家文書「御家中由緒書」(『岡山県史 第26巻諸藩文書』所収)に、吉田源五兵衛方行の二男として「葛巻九馬治郎」と見えることから、文化年間(1804〜1818)ごろには葛巻家の養子になっていたことが考えられる。
 荻生徂徠の儒学を学び、宇佐美流の兵学を修めたといわれ、史伝を好んで、画を能くしたと伝えられている。
 晩年、藩主木下家の親族であった旧岡山藩主小早川家が秀家の没後断絶していたのを再興しようと、自ら長州に出向き、小早川家の宗家にあたる毛利氏と交渉したが、藩主木下氏の阻止によって果せず、挫折。このため禄を返上することになったという。その後は、世事に関わらず、自ら小早川秀雄と名乗って備中倉敷の書林林家に寄食、旧跡をめぐり、古書を求めて備中の歴史や地誌の研究に没頭した。
 『吉備郡史下巻』は小早川秀雄の著作として、「吉備国史」(『吉備叢書第2巻』所収、のち『新編吉備叢書第1巻』所収)のほか、「吉備拾遺」、「山陽山水臨(りんぼ)」をあげている。
 『吉備叢書第2巻』(明治30年刊)の沼田頼輔の解題によると、『吉備叢書』に収められた「吉備国史」は林家に残されていた未完成の稿本26冊を沼田が5巻に改編して収録したもので、このうち23冊が「吉備国史」と題するもの、3冊が拾遺という。
 嘉永6年(1853)正月に病没。法名は「平秀院軍巧円覚居士」。墓は岡山市足守の旧木下家家老杉原家の菩提寺守福寺にあると伝えられる。
 当館には塚本吉彦旧蔵の写本「吉備国史」3冊が収蔵されている。

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「吉備国史」(岡山県立図書館蔵)
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『岡山県総合文化センターニュース』No.426号、H13年、3月

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