三木行治写真
「私なき献身」より
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三木 行治
(1903〜1964)
岡山県知事をつとめた三木行治は、明治36年(1903年)岡山市畑鮎に生まれた。
岡山市立内山下高等小学校在学中に実母が亡くなった。大正7年(1918年)岡山中学校に入学、大正11年(1922年)4年修了で第六高等学校に入学した。第六高等学校在学中に父が亡くなっている。大正14年(1925年)岡山医科大学に入学し、昭和4年(1929年)卒業と同時に岡山医科大学副手となり、稲田内科に勤務した。その後徳島県小松島診療所、岡山簡易保険健康相談所の医師となった。岡山簡易保険相談所の勤務は昭和5年(1930年)から昭和14年(1939年)まであるが、その間に九州帝国大学法文学部に入学、授業料は納めたが大学では講義を受けず、独学で勉強し、試験だけを受けに行った。また、岡山医科大学の細菌学教室にも通い、寄生虫の研究をしていた。昭和9年(1934年)には九州帝国大学法文学部を卒業し、法学士となった。さらに昭和12年(1937年)には「鎗形吸虫ミラチジウム及び吸虫ミラチジウムの発育」という主論文と作州熱に関する副論文などにより医学博士となった。
昭和14年(1939年)簡易保険局監理課長高橋等(後法相)との出会いにより三木は厚生省保険院簡易保険局監理課に入ることになる。以来行政官として勤務し、最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。
厚生省を退官して岡山県知事選に出馬することになるが、この時厚生省は三木の出馬に反対で、黒川厚生大臣は三木を次の厚生次官にすると述べて引きとめようとした。
昭和26年(1951年)三木は48歳で岡山県知事に初当選する。その後昭和39年(1964年)9月21日に急逝するまで三木は岡山県知事であり続けた。
岡山県は三木の在任中に大いに充実発展した。水島臨海工業地帯の開発、蒜山の観光開発、岡山国体開催、益野団地や中庄団地などの建設、岡山県天文博物館や県体育館の完成、県総合文化センターの新築など多くの開発、建設を行った。三木は産業復興だけでなく、環境整備や社会保障にも力を入れた。「岡山県福祉計画」を樹立し、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。献眼登録の第1号に三木がなり、三木の逝去後2人の若い女性に三木の角膜が移植された。その他児童会館や軽費老人ホームの建設をしたのも三木であった。
昭和39年(1964年)8月31日、逝去20日前、三木は東洋のノーベル賞といわれるラモン・マグサイサイ賞を受賞した。この時の副賞1万米ドル全額と県民からの寄附金を中心に「岡山県三木記念事業基金」が設置され、それにふさわしい事業を行ってきている。また衛生会館内に三木記念ホールが設けられ、遺品が展示されている。 |