箕作秋坪
(津山市川崎津山洋学資料館提供)
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- 嘉永六(1853)年、ペリー提督率いる軍艦の浦賀来航以来、幕府は諸外国による開国要請に対応するために洋学者の知識を求めた。こうした背景のもと、宇田川家と並んで津山洋学の中核を担った箕作家は、藩医として従事するとともに、幕府の外交交渉に奔走した。
今回はこのうち箕作秋坪の略歴及び関係の文献を紹介する。
秋坪は、文政八(1825)年、阿賀郡上□部(アザエ;現北房町)にあった津山藩預所学校□部(アザエ)教諭所の学監菊池文理の二男として生まれた。幼い頃父を亡くし、十九歳で江戸に出て箕作阮甫に、二十二歳には大坂の緒方洪庵の適々斎塾で教えを受けた。
このあと阮甫の二女と結婚して箕作姓を継いだ。1853年からは幕府天文台に入り蛮書和解御用を命じられ、その後外国奉行手付、蕃書調所教授職手伝として翻訳業及び子弟の指導につとめた。1861年には通商条約実施延期交渉などのため西洋各国へ、1866年には樺太国境交渉の随員としてロシアを訪問した。維新後も英学塾「三叉(サンシャ)学舎」の開設、「明六社」の創立及び社長就任、教育博物館長及び東京図書館長の兼務など、業績は数多い。
文献としては、まず『箕作秋坪とその周辺』(昭45・治郎丸憲三著)を紹介したい。これは秋坪の本格的な伝記としては最初のもので、業績を年表的にまとめている。巻末に関係文献・年譜を賦し、秋坪の基本的事項を知るには格好の一冊である。著者はこの後も秋坪の交友関係、出版物、菊池家の由緒等を補足訂正していく形で論文を著している。これらは「作陽音楽大学作陽短期大学研究紀要」、「倉子城」に載せられている。
また、箕作阮甫関連の文献からも秋坪を知ることができる。代表的なものをあげると、『箕作阮甫』(大3・呉秀三著)、『洋学者箕作阮甫とその一族』(平6・木村岩治著)などである。『北房町史』通史編上(平4・同町史編集委員会)・ 『津山市史』第五巻(昭49・同史編さん委員会)には、幕末の文化面で秋坪が取り上げられている。前者は菊池家及び教諭所に、後者は津山松平藩史料などから阮甫・秋坪に関する記述を抜き出しているところに特徴が見られる。
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