中川 横太郎なかがわよこたろう

(1836〜1903)


 明治期の社会事業家。
 岡山藩士中川亀之進の子として生まれる。
 1871年(明治4)廃藩置県とともに岡山県の学務兼衛生主任となり、県内小学校の新設、医学校(現岡山大学医学部)、閑谷学校の再興、薬学校(のち関西中学・現関西高校)、山陽女学校(現山陽学園)の設立・発展に尽力した。
 また、士族授産のため、実弟杉山岩三郎と岡山紡績を設立、児島湾開墾を計画するなど、殖産興業の面でも文明開化期の岡山を指導した。
 顕彰碑が岡山城南の堀端にある。


【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】
「岡山の奇人変人」(蓬郷巌著、日本文教出版、昭52)
「中川健忘斎逸話集」(久米龍川著、岡山県人社、昭12)

「おかやま人物往来」へ戻る