大賀 一郎 (1883〜1965) |
大賀一郎は、1883年(明治16年)賀陽郡庭瀬村大字川入(現在岡山市)に生まれた。 1901年(明治34年)岡山中学校を卒業したが、チフスに罹り進学を断念する。回復後に母校岡山高等小学校で3年生の授業を受け持った。1902年(明治35年)岡山基督教会で宣教師ペギー師により受洗入会する。9月に第一高等学校二部に入学する。内村鑑三宅へ聖書講義を受講しに行くようになるのは高等学校へ入学してからである。 第一高等学校卒業後、東京帝国大学理科大学植物学科に入学する。1909年(明治42年)大学を卒業し、大学院へ入学する。卒業論文は「アサガオの細胞学的研究」であった。大学院での専攻は植物細胞学で、ハスについての研究がスタートしたのである。 1910年(明治43年)第八高等学校講師に任ぜられ、名古屋に赴任する。翌年、内村鑑三夫妻が媒酌人となって塩尻うたと結婚した。この年に第八高等学校教授(生物学)となる。1917年(大正6年)南満州鉄道株式会社の教育研究所に転任し、大連に赴いた。 この満州で一郎は南満州フランテン泥炭地から古ハスの実を採集し、研究することになる。南満州鉄道株式会社の命により、米国のボルチモアにあるジョンスホプキンス大学に留学した。米国では植物生理生態学の研究のほかにフランテン出土の古ハスの実の研究を続けた。米国の新聞に「500年生きた古いハスの実の発芽に成功」と報道されたことにより、米国で大いにもてはやされ、ボイス・トムソン植物研究所に招かれたりもした。 ヨーロッパ諸国を歴訪し、1926年(大正15年)大連に帰った。そして奉天に居を移し、奉天教育専門学校で教鞭をとることになる。1927年(昭和2年)には「南満州フランテン産の生存古蓮実の研究」により東京帝国大学から理学博士の学位を授けられる。論文の要旨はフランテン産の古ハスの実は過去において100年〜4・500年の寿命を持っている世界最長寿の実であり、将来なお、2,500年は生存すると予言し、その理由を明らかにしたものであった。 満州事変が起きると、翌年には東京へ帰った。東京へ帰ってからは、東京女子大学、東京農林専門学校、関東学院大学などで講義を行う一方「当麻曼荼羅」の研究、ハスの開花音の有無の実験などを行った。1951年(昭和26年)千葉県検見川の泥炭層から約2,000年前の古ハスの実の最初の1粒を得た。この年の5月にはこの古ハスの実が発芽し、翌年には開花する。このハスが二千年ハス(大賀ハス)である。シカゴ大学原子核研究所W.F.リビー博士のラジオ・カーボンテストにより、検見川の古ハスの実は3,075±180年以前のものであることが確認された。 1955年(昭和30年)岡山市後楽園に二千年ハスが移植され、現在に至っている。 大賀博士のその他の業績として布目文の研究や妙蓮の研究がある。 |
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