小野 光右衛門おの みつえもん

(1785〜1858)
 

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 江戸末期に西洋から入った新しい数学に対し、以前からわが国にあった数学を和算という。戦国から江戸初期のころには、築城などの土木普請や検地、江戸時代には商品の売買、金銭の貸借、土地の測量や暦の編纂など、実用の計算に欠かせない学問として発達した。

 江戸時代中期以降になると、岡山県内にも和算家として知られる人々が現れるようになった。

 小野光右衛門は天明五年(1785)浅口郡大谷村(現金光町)の庄屋の家の生まれ。父が早く死去したため17歳で庄屋の職を継いだ。公務精勤によって名字・帯刀を許され、さらに焼失した蒔田藩役所の再建の際、家相や地相を調べ、尽力した功績によって大庄屋格、ついで大庄屋を務めた。地方行政に貢献すること56年に及んだという。この間、光右衛門は子弟の教育にも努め、多くの子供たちに手習いを教えており、金光教の教祖金光大神も13、4歳のころ光右衛門に手習いを学んだ。
小野光右衛門画像
(岡山県立博物館蔵)
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 一方、光右衛門は若いころから数学を好み、はじめは和算書で独習していたが、文化六年(1809)、25歳の時、大江村(現井原市)の谷東平(たにとうへい)について本格的に和算を学んだ。谷東平は大坂の麻田剛立(あさだごうりゅう)の塾で学び、晩年郷里に帰って中山舎という塾を開いた人で、高橋至時(よしとき)や間重富(はざましげとみ)とは麻田塾の同門といわれる。また、伊能忠敬が「谷東平と申我等天文ノ弟子」と記していることから、東平は伊能忠敬に天文を学んだようである。

 文化十年(1813)里見川の開墾にかかわって、阿賀崎新田村(現倉敷市玉島)との間に訴訟がおきた時、村の代表として江戸へくだった光右衛門は訴訟の合間をぬって幕府天文方渋川景佑
(かげやす)を訪ね、その高弟で暦作り御手伝いの山本文之進に天文・暦学を学んだ。次第に光右衛門の名前が知られるようになると、陰陽道の土御門家から入門の誘いを受け、嘉永三年(1850)には土御門(つちみかど)家から入門状を受けている。嘉永七年(1854)には和算の入門書「啓迪(けいてき)算法指南大成」を刊行、出版部数は1700部に及んだという。

 和算の発達は数学の定理や問題を描いて奉納する絵馬、算額を生んだ。はじめは、定理などを発見した時、これを神仏の加護と感謝して奉納したものが、後には自分たちが解いた難問を掲げるものも現れるようになった。現在、岡山県内でも二十余面の算額が知られ、吉備津神社(岡山市)や総社市の総社宮には小野光右衛門一門が奉納した絵馬が伝来している。

 県内では、小野光右衛門、谷東平のほかにも原田元五郎、窪田浅五郎・善之、片山金弥等々の和算家が知られるが、これまでこの分野の研究、著作は多くない。今後が待たれる分野である。

 当館では『江戸時代の数学』や『和算入門』など数学の歴史を紹介した入門書から、江戸時代の和算書(『江戸初期和算選書』ほか)まで幅広く閲覧できる。

 岡山の和算については、『和算と岡山県』(大森毅)、『備中の和算家と算額』(岸加四郎)等のほか、県内の算額や和算家を紹介した山川芳一の労作『岡山の算額』がある。また、県立博物館へ寄贈された窪田浅五郎・善之の資料を紹介した岡山県立博物館の『研究報告第十二号』には、浅五郎とかかわった岡山の和算家が紹介されている。

『岡山県総合文化センターニュース』No.407、H10,8

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