良寛堂と良寛像(倉敷市玉島円通寺)
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修行僧良寛りょうかんと玉島
 
(1)良寛の生い立ちとその資料

 安政八(1779)年十月頃、一人の僧がその師に従行し、玉島の地にやって来た。当時22歳のこの修行僧は良寛、師は円通寺第十世大忍国仙和尚である。
 良寛は宝暦八(1758)年、越後国(新潟県)三島郡出雲崎で代々名主兼神職を務める橘屋山本家の長男として生まれた。幼名を栄蔵といい、性格は温和であったが社交性に欠け、昼行灯(ひるあんどん)とあだ名されるほどだった。しかし幼時から読書を好み、大森子陽の塾に入り和漢の学を修めている。18歳のころ、名主見習いとなった良寛は、そのわずか数カ月後に突然、曹洞宗光照寺に駆け込み、出家する。理由は定かではない。この光照寺で良寛は、越後へ巡錫(じゅんしゃく)にきて、しばらく同寺に滞留していた国仙和尚と出会う。そしてその徳を慕って弟子となり、故郷を離れ、玉島へと向かったのである。
 玉島の円通寺に移った良寛は、厳しい修行に耐え、寛政二(1790)年三十三歳で師から印可の偈(げ゙)を与えられる。しかし翌年、国仙和尚の死を契機としてか、諸国行脚の旅に出る。その後、寛政八(1796)年頃故郷に帰り、天保二(1831)年に74歳の生涯をとじる。
 現在、良寛没後160年あまりたっているが、その間良寛に関する資料は多数出版されている。そのうちのいくつかを紹介する。


 『良寛−日本人のこころ』(昭53・加藤僖一著)は良寛入門書といった感のある伝記である。後半は良寛の人柄や生活ぶりについて、逸話をもとにしながら書かれている。

『良寛の世界−没後一五〇年記念論集』(昭53・「良寛の世界」編集物編)、『良寛・玄透研究論集』(平3・吉川彰準著)はいずれも論文集で、様々な角度から良寛をとらえている。前者は多数の良寛研究家がテーマ別に執筆し、また座談会で語っている。後者は、『良寛の世界』でも執筆している岡山在住の良寛研究家、吉川氏の研究成果の集大成と言える資料である。研究書ではあるが、硬さはなく、一般の人にもわかりやすい内容になっている。

 その他にも『良寛−逸話でつづる生涯』(昭53・安東英男著)、『話本良寛さま』(昭54・大坪草二郎著)がある。前者は良寛の生涯を逸話を中心に物語風にまとめたもので、良寛の人柄を余すところなく伝えている。また後者は子ども向けに童話化されたもので手にとりやすい一冊である。
(2)玉島と良寛

 円通寺に来りてより 
   幾春冬なるかを知らず
 門前千家の邑(ゆう)
   更に一人を知らず
 衣垢(ころもあか)つけば 手自ら洗い
  食尽くれば 城門に出ず
 曽(かつ)て高僧伝を読む
 僧はよろしく清貧なるべし

 この詩から、良寛が円通寺で、月日の経つのも忘れて厳しい修行に明け暮れ、 食尽きると托鉢(たくはつ)してまわり、日々を過ごしていたことがわかる。 円通寺は曹洞宗の宗門の修行道場であったので、かなり厳しい禅宗の修行が行われていたらしい。 その様子は『良寛修行と玉島』(昭50・玉島良寛研究会編)に詳しい。本書では良寛の修行の様子だけでなく、円通寺や、玉島の歴史、玉島での良寛研究や奉賛事業にまで言及され、玉島での良寛をつぶさに知ることができる。

 また文頭にあげた良寛の詩は、現在円通寺公園(県指定名勝)と 呼ばれ、良寛の修行にゆかりの建物や石碑などが多い。それらの遺跡を訪ねる手引きとなるのが 『玉島の良寛遺跡案内』(平元・森脇正之著)である。 これには円通寺公園名所旧跡石碑案内図も付されており、大変わかりやすい資料である。 写真もふんだんに使われ、良寛の書も見ることができる。この中に紹介されているものに 手鞠(まり)の歌碑がある。

 霧立つ長き春日を子供らと
 手鞠つきつつこの日暮らしつ

 この碑の前には、三人の童に囲まれ手鞠を抱えた良寛像があり、 いずれにも手鞠を愛し、子どもを愛した良寛の人柄があふれている。その子どもたちに良寛を 知ってもらうために書かれた本が『円通寺の良寛さん』 (昭55・森脇正之著)である。平易な文章で書かれたこの本の表紙には、童と良寛像の写真が 使われている。

 同じ良寛像の写真を表紙に使っているものに、岡山文庫の『良寛さんと 玉島』(平5・森脇正之著)がある。本書は良寛の伝記が主であるが、著者のこれまでの多くの良寛関係の著書を基に幅広く良寛の姿を描き出している。

 この他にも良寛は『玉島地方史 続1』(平3・太田茂弥著)、 『玉島今昔物語』下巻(平6・渡辺義明編)などに取り上げられ、 玉島を語る上で欠かせない人物であることが知られる。そういった中で良寛の遺徳をしのび、 春の良寛茶会や秋の良寛祭りなど、地域に根ざした催しが行われている。ここ玉島には良寛の面影が 今も残されているのである。


(『岡山県総合文化センターニュース』No.370・371、H7.7・8)

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