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西行の足跡 生涯にわたって花と月を愛し、歌い続けたことで知られる西行は、平安末期の代表的歌人である。俗名は佐藤義清(ノリキヨ)、法名は円位。元永元(1118)年に名門の武士の家に生まれ、鳥羽上皇の北面の武士として出仕していたが、二十三歳の時に出家。以後諸国行脚に日を送り、歌壇の外にいながら、高い尊崇を受けた。 |
ところで前述の『吉備の児島の総鎮守』は児島にある
清田八幡宮の歴史を調べあげたものであるが、この八幡宮は西行とのかかわりも深く、西行が腰掛けたという腰掛石と歌碑が残っている。 昔見し松は老木(オイキ)になりにけり わが年経たるほども知られて この歌は『山家集』の詞書(コトバガキ)によると、西国旅行の時に、児島という所に八幡宮が祀られていて 社殿に参籠(サンロウ)した。年がたって再びその社を見たところ、松が古木になっていたのを見て詠んだものであるという。しかし、西行が訪れた八幡宮については諸説があり、『玉野市史』 (昭45・玉野市史編纂委員会編)にも紹介されている。 また、『邑久郡誌』 第三編(大2・小林九磨雄編)には長船に西行の腰掛石があるという記述がある。 さて、この旅において西行は、海辺に暮らす海人や商人たちの生業を眼前にし、仏者としてもどうすることもできない人間の根源的な罪と生への営みに、思いをはせている。そしてその思いは渋川で詠まれた歌に端的に表れている。最後にこの歌を挙げて結びに換える。 下り立ちて浦田に拾ふ海士(アマ)の 子はつみ(ツブ貝)より罪を 習ふなりけり |
(『岡山県総合文化センターニュース』No.369、H7,6)
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