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幕末の漢学者・教育者。備中・川上郡九名村(現小田郡美星町)の造り酒屋に生まれた。通称は希八朗、名は素(しろし)、号は朗廬。 幼少の頃、大塩平八郎に学び、ついで江戸で同郷の昌谷精渓の門に入り、のちに古賀とう庵に師事した。26歳のとき、母の病で帰郷、後月郡簗瀬村桜谷(現後月郡芳井町)に桜渓塾を開いた。その後、寺戸村(現井原市西江原町)に創設された興譲館に招かれた。 広島藩の藩儒にも迎えられ、さらに陸軍省に務めた後、文部、司法などの要職を歴任し、退官後、東京学士会議員に選ばれた。 開国論を主張し、議会主義、海軍充実を説く開明派であり、福沢諭吉らの明六社に加わった。また、世界共通語の必要も唱えていた。 |
【参考資料(岡山県立図書館所蔵)】
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