妹尾 兼康 |
平家物語絵巻 |
妹尾兼康は『保元物語』・『平治物語』・『平家物語』・『源平盛衰記』など平安末期を舞台とする戦記物語に見え、また備中南部4400町歩をうるおす県下最大の用水「十二カ郷用水」の開発者とされて知られる。特に『平家物語』では、巻八に「妹尾最期(さいご)」という一節を設けて兼康の最期を描き、木曾義仲をして「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたのであった。 『保元物語』には、安芸守平清盛に随った兵のなかに「瀬尾兼康」の名前が見え、『平治物語』では、平重盛に付き従った侍の中に備前の難波二郎経遠(つねとお)・同三郎経房とともに「妹尾太郎兼康」の名前がある。兼康は備中妹尾郷を基盤とし、備前の難波氏らと早く平氏の家人となってその繁栄を支えた武士であったと考えられる。 |
安元3年(1177)鹿ケ谷での密議が露顕して大納言藤原成親らが捕えられた時には清盛の命で成親を呵責し、鬼界ケ島へ流罪となった成親の嫡子丹波少将成経(なりつね)を一時備中瀬尾へ預かっている。清盛の信頼が厚かった所為であろう。 奈良の僧らが蜂起した治承4年(1180)には、鎮圧軍500余騎を率いて奈良へ入ったが、清盛から甲胄の着用、弓箭の所持を禁じられていたため配下の60余人が討たれ、これが平重衡による南都焼き打ちの原因となって興福寺や東大寺などが炎上したのであった。 寿永2年(1183)「聞ゆる大力」兼康も、倶梨迦羅(くりから)が谷(富山県)で木曾義仲の軍勢に敗れ、義仲配下倉光成澄(くらみつなりみず)の捕虜となって義仲軍に同道する。しかし、平氏を追って義仲の軍勢が備前三石宿に到着した夜、「妹尾がしたしき者共」と謀って逃亡、備前・備中・備後三国の兵二千余人を集めて福隆寺縄手(ふくりゅうじなわて)、笹の迫(ささのせまり)を城郭に戦って敗れ、さらに板倉でも敗れて一旦は敗走するが、肥満のため動けなくなった嫡子宗康を見殺しにできず引き返して討たれた。義仲の言葉はこの時のことであった。 岡山市吉備津にある鯉山小学校の傍らに兼康の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、近年同校の校庭から1000点をこえる土器とともに出土した頭骨が妹尾兼康の首ではないかと注目されている。 一方、妹尾兼康は妹尾辺の開発領主といわれ、総社市井尻野の湛井堰で取水する十二カ郷用水は妹尾兼康が妹尾辺を開くために整備したと伝えられている。江戸時代の記録によると、この用水は寿永元年(1182)妹尾兼康が目論見(もくろみ)し、福井二郎左衛門が奉行となって築造したという。湛井堰の守護神井神社境内に「兼康神社」が祭られているのはこのためである。 妹尾兼康について触れた著作では、前掲の戦記物語のほか、『悲運の平将「妹尾太郎兼康」評伝』(同前峰雄著)、『備中湛井十二箇郷用水史』(藤井駿・加原耕作著)ほか多数がある。 |