歌聖 正 徹
「藤原定家の再来といわれている 正徹は、矢掛の生んだ中世における大歌人である。」
『矢掛町史』本編(昭57・矢掛町史編纂委員会編)にこのように述べられ、中世文学に大きな足跡を残した
正徹が、郷土の歌人であるということは、案外知られていないことのように思われる。
歌人正徹は、弘和元(1381)年、備中小田の神戸山城で、その二代目の城主小松上総介の子として生まれ、
幼名を正清といった。十歳のころ初めて和歌を作ったと言われており、そのころ父母に従い上京。十五歳ごろ
より冷泉為尹・今川了俊を師として本格的に歌を学び、冷泉家の歌風を継ぐ。後に彼は出家して東福寺に入り
正徹と称し、そこで書記を勤めていたため、徹書記ともよばれた。
正徹は新古今風に傾倒し、その歌風は、11,236首を収めている膨大な歌集『草根集』でうかがい知ることが
できる。彼にはまた『正徹物語』という歌論があり、その冒頭で「定家を なみせん輩は…罰をかふむる」と発
言したことは有名で、藤原定家を顕彰する気持ちが特に強かった。歌道以外にも晩年は将軍足義政に召されて
源氏物語を講じるなど中世歌壇の重鎮として幾多の業績を残している。
この正徹の研究に長年努力を払った地元の研究家に藤原隆景氏がいる。氏が著した
『正徹顕論』(昭2・藤
原隆景編)では正徹の歌論や歌風、文学史上での位置づけなどの検証がされている。『備中誌』などに掲載さ
れた 正徹の記事も付され、研究成果の現された資料である。その後、正徹五百回忌に『新撰正徹千首』(昭34
・藤原隆景編)を刊行し、その研究に更なる深まりをみせている。同書は『草根集』から選んだ千首の歌に加
え、『草根集』の解説や小田氏年表などを付した資料で、歌人正徹と郷土人としての正徹を共に知ることがで
きる。
次に、正徹の作品論をいくつか簡単に紹介する。『正徹論』( 昭17・児山敬一著)は作品を通して正徹の精
神を明らかにしている。また、稲田利徳氏は、「岡山大学教育学部研究集録」49号、54〜56号、64号に「正徹
物語掲載の正徹歌の評釈」などを発表している。氏も正徹の研究家であり、その研究の一端を知る資料である。
さて正徹は、一時作品によって咎(とが)めを受け、流されたが、ある歌を詠むとそれが上聞に達し、召しか
えされたという。その歌を挙げ、結びに換える。
なかなかになき魂ならば
故郷に帰らんものを
今日の夕ぐれ
(『岡山県総合文化センターニュース』No.378、H8,3)