八木 浄慶 和気郡八木山村の浄慶は『備前孝子伝』(五巻)の 第一巻の最初に紹介される。 |
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このため、『備前孝子伝』は封建社会の支配層が求める理想的な人間像がどのようなものであったかを知る格好の歴史資料であるといえる。登場する人々は実在した人々である。 八木浄慶は八木山村(備前市八木山[やぎやま])に住んでこの地に産する蝋石で仏像を造ることをなりわいとした。備前市三石光明寺・西片上真光寺・蕃山正楽寺などに伝来する大日如来坐像、大滝山実相院の虚空蔵[こくぞう]菩薩像などが浄慶作として知られる。 浄慶は三石地方の蝋石の発見者と伝えられる。この地方の蝋石は浄慶石・八木山石・焼山石などと呼ばれて石筆用に採掘されていたが、近代工業が発展すると、耐火煉瓦・クレー・製紙などにも使われるようになった。 『備前孝子伝』によると、浄慶は親孝行の志篤く、慶長七年(1602)岡山藩主 池田忠継の父輝政がこれを聞いて浄慶を賞誉し、その年貢を代々免除することにしたが、慶長一八年(1613)輝政が没したことを聞いた浄慶は白石(蝋石)で輝政の像を刻み、朝夕これを拝礼して輝政の恩に報いたという。 また、死に臨んで、その子八木左衛門に僧となって輝政の像を祭祀するよう遺言したという。 浄慶の死後八木左衛門は父の遺言に従い、出家して浄慶と名乗り輝政像を祭祀することにしたが、母への孝心が篤かったことから、藩主光政がこれを聞き、お前が出家して子孫が断たれるのは親への不孝のはじまりで、輝政像を祀る者も絶えることになろうと諭したところ、浄慶が悔い改めたので、光政は浄慶を還俗させて八木左衛門復善[ふくぜん]と名乗らせ、旧知の六石余りに十三石余を加増して二十石の土地を与え、八木山山中に祠を建て、これに輝政の像を納め、浄慶の子孫が左衛門と称して代々お祀りしたという。 これが八木山の鏡石神社で、池田輝政の像は今も同社の御神体として祭祀されており、『備前孝子伝』にも収められる万治三年(1660)池田光政が与えた感状などが鏡石神社の神主八木家に伝来している。 当館では、江戸時代後期に版本として刊行された『備前孝子伝』のほか、浄慶関係の資料を収録した『三石町史』や『和気郡史』(資料編上巻)、浄慶作の彫刻を紹介した『わがまちの文化遺産』などを閲覧することができる。 |