与謝野寛
(小学館「群像日本の作家6」より掲載)
画像等の無断複製・転載・改変
・放送等は禁じられています。

与謝野寛 よ さ の  ひろし晶子あきこ
夫妻と岡山
(1)寛・晶子と正宗敦夫

 鉄幹の号で広く知られる歌人与謝野寛は、父礼厳の事業の失敗のため、少年時代は親元を離れての流浪の日々を過ごした。彼は大阪の安養寺の養子になり、そこで仏典・漢籍を学んだが、十五歳の時にその養家を飛び出し、兄の和田大円を頼って岡山市国富の安住院で一年余りを過ごした。その後、寛は近代短歌への道に目覚め、明治33(1900)年4月には機関誌『明星』を創刊し、浪漫主義文学を積極的に地方に働きかけていった。彼はこの岡山にも第六支部を置き、何度か来岡している。
 また、同年寛は鳳晶子と出会う。
 彼女が寛と熱烈な恋に陥り、与謝野姓を名乗るのは、明治34年のことである。
 与謝野寛と晶子にとって、岡山での関連を語る上で欠かせない人物が正宗敦夫である。彼は和気郡の歌人で、与謝野夫妻と共同で大正14(1925)年から『日本古典全集』の刊行を手がけた人物である。この『日本古典全集』は、266冊刊行された。そのうち70冊までは与謝野夫妻との共同であるが、残り196冊は敦夫の独力で刊行されたものである。詳しくは『正宗敦夫の世界』(平元・吉崎志保子著)に記されているので参照していただきたい。
 与謝野夫妻と敦夫との書簡も多く残されている。紀要「古典研究」(ノートルダム清心女子大学国語国文学科編集発行)や、「書簡研究」(岡山手紙を読む会編)所収の論文からは、歌人として、また一個人として、三者の交友の深さを読みとることができる。

2)与謝野夫妻の来岡

 昭和8(1933)年6月26日、与謝野夫妻は岡山に向けて東京駅を出発した。翌27日、山陽線和気駅で下車し、正宗敦夫の出迎えを受けて同家に泊まった。正宗家への来遊は寛にとっては二度目のことであった。ここで、この後の夫妻の道程を略記しておこう。
  28日 瀬戸内の島々を巡遊し、午後は伊部焼に歌を彫る。
  29日 正宗邸から岡山駅、下津井へ。瀬戸内海の島々を遊覧。
  30日 味野の高等女学校で講演。
7月1日 倉敷駅から汽車で勝山へ。神庭の滝、真賀温泉、湯原温泉に行く。
  2日 院庄の作楽神社、奥津温泉、津山を観光。
  3日 津山の高等女学校で晶子が講演。
    その後岡山へ向かい後楽園の会合に出席、夕食後に離岡。


与謝野晶子
(堺市戒島町「与謝野晶子ギャラリー」のパンフレットから掲載)
 この日程は、交通機関の発達した現在でも厳しいものと思われるが、夫妻が観光した各地で詠んだ歌は、 旅の疲れよりもむしろ行く先々でのすがすがしさを感じさせられるものばかりである。これらの歌は雑誌「冬柏」第四巻第八号(昭8刊) の「海から渓へ」の中に収められている。岡山文庫41の『岡山の短歌』(昭46・藤原幾太・杉鮫太郎著) に載せられているので参照されたい。同書には、与謝野夫妻が昭和4年10月に備中方面へ旅をした際の歌も載っている。新見市の 「槙の穴」を「満奇洞」と称したのは有名なことで、この満奇洞前には夫妻の歌を刻んだ碑が建てられている。また、山陽新報では、この夫妻の旅程等を 昭和8年6月29日から翌7月10日までの間逐一報道しており、当時から夫妻の注目度の高さを感じさせる。

(その他、寛と岡山との関連を論じた文献として、『岡山と鉄幹』(昭35・谷林博著)や、雑誌「樹木」に昭和63年から翌年まで掲載されたものを一冊にまとめた『与謝野鉄幹と岡山』(吉崎志保子著)がある。前者は寛の学生時代に焦点をあてたものであり、後者は主に岡山歌壇との関連を説いたものである。
 少年時代を岡山で過ごした寛、そして寛を通じてではあるが晶子にとって、岡山は忘れ難い土地の一つであると思われる。

  我老いぬ いつまた和気の
  海を見ん 涙おちきぬ
  片上の路

 これは寛が岡山を去る際に詠んだ歌である。しかし彼は再び和気の海を見ることなく、晶子と来岡した2年後の昭和10年に世を去った。


(『岡山県総合文化センターニュース』No.367・368、H7,4・5)

「おかやま人物往来」へ戻る