備中寺院めぐり − 備中地域の主な霊場
− 倉敷市玉島乙島付近(撮影:2006年5月) −
霊場名 説明(下段は参考文献)
リストマーク 祇園山内八十八ヵ所霊場 霊場は、高梁市巨瀬町にある補陀洛山別格本山感神院祇園寺を起点にその背後にある祇園山周辺を巡る。創立は、『備中の霊場めぐり』で約150年前、『巨瀬町誌』では200年前と記されている。『巨瀬町誌』によれば明治中頃に一時期荒廃するが、その後有志により整備が行われた。行程は『巨瀬町誌』によれば1里(約4q)、『備中の霊場めぐり』では7qほどとされている。2資料とも旧暦3月4日には霊場巡りが開催されており、この時は接待も行われていると記されている。
《参考文献》 巨瀬町誌編集委員会『巨勢町誌』 巨瀬公民館 (1970年)
『地場大師八十八ヵ所調査報告書』 岡山市大内田周辺民俗文化財調査委員会 (1981年)
川端定三郎『備中の霊場めぐり』 日本文教出版 (1993年)
リストマーク 地場大師八十八ヵ所 田の地場大師巡りともいう。地場大師のある妹尾崎、山田が旧福田村に所属していたことによる。なお現在、福田という地名は現存していない。開設に関わる伝承は特には残っていないとされ、諸資料から開設の時期は1780年代の天明年間と1790年代の寛政年間の2説が想定されている。
行程は四国八十八ヵ所の百分の一といわれ、三里六丁、約13qほどで1日あればまわることができる。お堂や石仏は地元民により現在に至るまで大事に祀られており、札所も100をこえる。巡礼も大内田の千手寺では年3回、地元民を中心に主催している。近年、岡山県の流通センターの造成により、一部変更が行われている。
《参考文献》 『地場大師八十八ヵ所調査報告書』 岡山市大内田周辺民俗文化財調査委員会 (1981年)
『わたくしたちの福田村』 笠石隆秀編 (1983年)
『備中の霊場めぐり』 川端定三郎 (1993年)
リストマーク 神島八十八ヶ所めぐり 島にある八十八ヶ所の呼称は諸資料によって異なり、神島八十八ヶ所、神島四国八十八ヶ所、神島霊場八十八ヶ所、神島四国霊場などとも呼ばれている。
神島の八十八ヶ所の成立は延享2(1745)年の「神島四国巡礼記」及び寛政元(1789)年の「今田慧弦五輪塔」の刻文に詳しく、今田慧弦(俗名卯兵衛)という人が、同じ志を持つ神島の十郎兵衛とともに、寛保3(1743)年春から巡礼地に安置する石仏の作成をすすめ、翌1744(永享元)年に完成させたという。
また観光パンフレットなどに掲載されている通説では今田慧弦は肉親の死を契機に四国巡礼を行い、やがて神島を四国にみたてた霊場建設を発起したという。彼は前述の池田重(十)郎兵衛と再度四国霊場を巡り、各札所の土を持ち帰る。その土を神島の各札所に埋め、その上に石仏を置いたという。整備には元文5(1740)年〜永享元(1744)年の5年間を費やしたと伝えられている。
八十八ヶ所の行程は俗に「七里八丁」といわれ、全行程で約29q、通常一泊二日程度の巡礼である。現在も多くの人々が巡礼に訪れており、毎月の旧暦21日の縁日には神島へんろ会館で法要が営まれ、接待も行われている。
なお『地場大師八十八ヵ所調査報告書』の考察によれば、県内でも有数の歴史をもつ霊場の一つである。
《参考文献》 片山市太郎『神島巡遊案内』 日光寺景勝保存会 (1929年)
『増訂追補 小田郡誌 上巻』 小田郡教育会 (1941年)
『ふるさとを語ろう』 笠岡青年会議所広報委員会 (1974年)
『神島回顧』 伴芳子 (1980年)
『地場大師八十八ヵ所調査報告書』 岡山市大内田周辺民俗文化財調査委員会 (1981年)
『続神島回顧』 伴芳子 (1984年)
『神島史誌』 広沢澄郎編 (1985年)
『神島八十八ヶ所 〜拓本散策〜』 坂本亜紀児 (2005年)
『備中の霊場めぐり』 川端定三郎 (1993年)
『神島八十八ヵ所めぐり』
『神島八十八ヵ所 観光散策路』 笠岡市商工観光課
リストマーク 南備四国霊場 霊場は、明治36(1903)年、高徳寺(倉敷市船穂町)で住職をしていた清水快覚氏の発願で、半年以上をかけて同年中に完成した。南備四国八十八ヵ所(霊場)ともいう。行程は倉敷市西阿知遍照院を一番札所に同市玉島から浅口市、里庄町、笠岡市を巡り倉敷市西阿知にもどる。『郷土風土記』では各札所間の距離が里丁で示されており、それに従うと約百数十qである。
《参考文献》 『長尾町誌』 花田一重・守屋武士編 (1951年)
『玉島変遷史』 玉島郷土研究会編 (1954年)
『郷土風土記』 宗澤節雄 (1986年)
『備中の霊場めぐり』 川端定三郎 (1993年)
リストマーク 乙島四国霊場 敷市乙島地区にある霊場である。本霊場の開基をうかがう史料として寛政3(1791)年に「乙島八十八札所」の本尊寄進帳があり、この時八十八ヵ所の本尊が寄進されていることが示されている。行程は乙島周辺を1日ほどで巡る。周辺は古くから集落が点在しており、現在でも篤く信仰されている。
《参考文献》 『玉島地方史下』 大田茂弥 (1991年)
『備中の霊場めぐり』 川端定三郎 (1993年)
リストマーク 備中西国三十三観音霊場 霊場については『備中西国三十三所観音霊場』にその成立の背景が記されている。それによればこの霊場は西国三十三所霊場を模して、江戸時代中期(寛政年間)に柳井重法によって開かれた。三十三ヵ所の各霊場は備中十一郡(川上・上房・阿賀・後月・小田・浅口・下道・加陽・窪屋・都宇・哲多)にまたがり、行程五十余里となり、現在の距離になおすと約200qとなる。
《参考文献》 「備中巡礼略記」 柳井重法
『吉備群書集成 第貳輯』 吉備群書集成刊行会 (1921年)
『増訂追補 小田郡誌 上巻』 小田郡教育会 (1941年)
『備中西国三十三所観音霊場』 小出公大 (1987年)
『備中の霊場めぐり』 川端定三郎 (1993年)
リストマーク 備中国(小田郡・後月郡・浅口郡)三十三所観世音菩薩霊場 霊場の開基は貞享4(1687)年で、選定した人物は在田軒道貞、本姓は吉岡、通称七郎右ヱ門、源左ヱ門とされる。父の菩提を弔うために三十三ヵ所を選定したとのことである。また県内最古の観音霊場であり、行程は約20里、5日から6日の旅程とする。
《参考文献》 『増訂追補 小田郡誌 上巻』 小田郡教育会 (1941年)
『備中国 小田郡・後月郡・浅口郡 三十三所観世音菩薩霊場』 在田軒道貞 (1978年)
『備中の霊場めぐり』 川端定三郎 (1993年)
※備中地域の霊場(八十八ヶ所)一覧については、こちらをご覧ください。
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