田渕屋甚九郎(ひなせ物語) − 日生の由来
リストマーク 名称(ヨミ) 日生の由来(ヒナセノユライ)
− 向山より 日生漁協と鹿久居島遠望(撮影:平成18年8月) −
リストマーク 説明 中古(奈良時代)、日那志〔ひなし〕と呼ばれていた頃は、藤野郡〔ふじのごおり〕(現在の和気町を中心とした地域)新田伊里〔にったいり〕の庄に属していたが、その後分離して日生村となったという。当時は、今と比べ海水が山際まで深く入り込んでおり、日生全体が大きな湾であったらしい。そして、人家は、山の裾か、少し上がった中腹、また、島々の一部にあったと思われる。
そして、「奥の川」上流の深山〔みやま〕の一本松、即ち、元水道貯水池付近の細道「才の峠」が、蕃山や三石へ通ずる唯一の道であったという。その後、この一漁村が次第に発展し、現在の日生となった。

時代がくだり、江戸時代になると、日生付近は、幕府や藩の公用船に対する水夫〔かこ〕労役奉仕の義務が漁民に負わされていたことから「加子の浦」ともいわれるようになった。なお、その義務の代償として、東は播州地先の海面から、西は備中の白石島付近まで漁業権を与えられていたことが、当地区で漁業が盛んになった原因の一つと考えられる。

ちなみに、「日生」の読み方は、長らく「ひなし」、あるいは、「ひなせ」とはっきりしなかったが、明治29(1896)年10月、日生郵便局開設の時から、正式に「ひなせ」に統一された。

※日生町は、平成17(2005)年3月 備前市及び吉永町と合併し、新「備前市」の一地区となっている。
リストマーク ギャラリー
向山から「港のみえる丘公園」(楯越山〔たてこしやま〕)をのぞむ
リストマーク 参考文献 『わが郷土日生町』日生町青年団機関誌文化部編「潮風」(1951年5月発行)
『ぼっこう横丁』 岡 長平著 (1965年5月発行)
『日生町誌』 吉形士郎編  (1972年11月発行)
『日生を歩く』 前川満著   (2002年7月発行)
 トップページ        このページの一番上に
〔岡山県立図書館メディア工房〕
《ご参考》デジタル岡山大百科を使えば、さらに関連情報を調べることができます。
  〔 本を探す ・ インターネット上で郷土情報を視聴する ( キーワード 地図 ) ・ レファレンス事例を探す 〕