大正15年5月 岡山市写真帖
岡山新聞社・中国民報社山陽新報社
前の写真へ    画像一覧    次の写真へ
◆説明 「岡山新聞社」
岡山新聞社は大正5(1916)年12月5日に創立した。岡山新聞は夕刊紙である。
大正10(1921)年9月に株式組織となり、翌11(1922)年10月には赤澤寛一の個人経営に移った。翌12(1923)年12月には再び株式組織となっている。
社屋は岡山市柿屋町(現、岡山市磨屋町)にあったが、昭和11(1936)年ごろに岡山市上伊福に移転。同13(1938)年11月に岡山毎夕(大正12(1923)年創刊。夕刊紙)を合併し、岡山毎夕社のあった岡山市天瀬に移転した。
昭和16(1941)年3月、岡山新聞社は合同新聞社に合併吸収された。

「中国民報社」
坂本金弥が県下の政界をリードしようとして機関紙中国民報を創刊したのは明治25(1892)年7月30日であった。
その後、坂本の政治的動向から紙数が激減し、大正2(1913)年3月に経営権が大原孫三郎に移る。これにより人事を刷新し新聞の内容も不偏不党なものに変更した。
中国民報社と山陽新報社は紙面上でも、またイベントなどを通しても激しく読者獲得を競った。昭和に入って中国民報社の飛躍は目覚しく、県外への伸張、印刷機械の整備充実なったが、主に経営合理化の面から、両社首脳陣は合併を決定。昭和11(1936)年12月1日合同新聞社となった。

「山陽新報社」
山陽新聞社の創業主は20歳の西尾吉太郎、主筆は26歳の小松原英太郎、編集長は24歳の万代義勝であった。山陽新報は明治12(1879)年1月4日の創刊。
創刊初期の山陽新聞は国会開設運動の指導的立場にあったことなどから、度々の発行停止処分や身代わり新聞の発行を余儀なくされている。
明治18(1885)年には7ヶ月間であったが、全国地方紙初の夕刊発行を行った。
明治34(1901)年、社屋を栄町から西中山下(現、中山下1丁目)に移転した。
山陽新聞社は昭和11(1936)年12月1日、中国民報社と合併し合同新聞社を発足。以後、山陽中国合同新聞を発行。翌12(1937)年9月には紙名を合同新聞とする。
昭和23(1948)年5月1日、創刊70年を記念し紙名を山陽新聞、社名を山陽新聞社と改め現在に至る。

◆参考文献 「岡山新聞社」について
『山陽新聞百二十年史』 山陽新聞社 1999
『新聞総覧 大正15年版〜昭和15年版』 大空社 1993〜1995

「中国民報社」について
『山陽新聞百二十年史』 山陽新聞社 1999

「山陽新報社」について
『山陽新聞百二十年史』 山陽新聞社 1999

トップページ    −    写真の一覧
 〔岡山県立図書館メディア工房〕
《ご参考》デジタル岡山大百科で関連情報を検索する。