アメリカに残されていた映像−終戦直後の岡山         
7. 旧日本電気株式会社(住友通信工業株式会社)岡山製造所の映像

 

             
<前のページ                                         次のページ>

(ご参考)本映像には、音声はありません。
◆映像解説 : 旧日本電気株式会社(住友通信工業株式会社)岡山製造所の映像

 旧日本電気株式会社の岡山製造所の映像である。社史によれば同工場は空襲により全焼、さらに隣接していた寄宿舎も直撃をうけ、「寄宿中の20名近い女子工員が全員焼死するという惨事」となっている。
 ところで、工場を所有した会社名についてレポートには「Okayama Nippon Electric Company」とあり、映像を収録した段階では日本電気株式会社の所有であるが、空襲時の会社名は「住友通信工業株式会社」であった。
 日本電気は従来、米国のインターナショナル・スタンダード・エレクトリック(ISE)社が大株主であったが、日米関係の悪化から、徐々に出資比率が減少、代わって住友系企業の出資率が増加していた。そして1942(昭和17)年にISE社保有株が「敵産」として処分され同社役員も退くと、翌年1月に住友は日本電気を系列下に置き、翌2月に社名を「住友通信工業株式会社」に変更している。なお、同社は敗戦直後に役員が大幅に変更、1945(昭和20)年11月30日には早くも社名を旧の日本電気株式会社に復している。
 戦時下の住友通信工業株式会社は軍需用の無線機、航空機用の各種電子装置や真空管などの生産に追われる一方、空襲被害への対策を念頭に1943(昭和18)年から工場分散に着手した。岡山製造所もその一環で1943(昭和18)年6月に鐘ヶ淵紡績所備前工場を陸軍航空本部の斡旋で購入して設立されている。購入費は555万9千円、敷地面積約9万uであった。社史によれば「当時は、これらを生産の増大に伴う工場の新設と考えたため、これに対して疎開という言葉は用いなかった」とされる。しかし昭和1944(昭和19)年以降、空襲が激化すると、政府の指示のもと第一次の工場疎開を立案、岡山製造所も主力工場の一つである東京都の三田製造所から有線・無線・部品・工具関係機械の移転が進められた。

◆参考文献
 日本電気社史編纂室『日本電気株式会社七十年史』日本電気株式会社 1972年
 日本電気社史編纂室『日本電気株式会社百年史』日本電気株式会社 2001年

トップページ  ( 映像の一覧 ) 
 〔岡山県立図書館〕
《ご参考》デジタル岡山大百科で関連情報を検索する。