藤戸合戦の古戦場をたずねて − トップページ | |
はじめに | ||||||||||||||||
今からおよそ800年以上もの遠い昔、源平の合戦が繰り広げられました。 岡山県では、藤戸(現在の倉敷市藤戸付近)と水島(現在の倉敷市玉島付近)で行われた合戦が知られています。 ここでは、藤戸の合戦について史跡を中心にご紹介したいと思います。 |
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− 『佐々木三郎盛綱騎馬にて藤戸の海を乗り渡る図』(岡山県立図書館所蔵) − | ||||||||||||||||
写真・資料リスト | ||||||||||||||||
写真・資料の一覧へ ※現在に残る史跡や当時の陣地図などがご覧いただけます |
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源平藤戸合戦について | ||||||||||||||||
源平の合戦も終わりに近づいた寿永3(1184)年に行われた戦いで、岡山県の南東部、倉敷市藤戸地区を舞台に繰り広げられた。この戦いでは、「藤戸の先陣」という佐々木盛綱のエピソードが有名である。 「新修倉敷市史」などをもとに、もう少し詳しく見ていこう。
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謡曲「藤戸」について | ||||||||||||||||
謡曲「藤戸」は、源平藤戸合戦で先陣をとった、佐々木盛綱に殺された浦の男の恨みを題材に、室町時代に作られたという。 ストーリーの前段は、藤戸合戦の功績で備前児島を所領として与えられた佐々木盛綱が、お国入りをした際、一人の老婆が我が子《浦の男のこと》を殺された恨みを訴える。それに対して、盛綱も自分の行いを思い出し、悔悟し、管弦講を行うこととした。 後段は、盛大な法要を営んでいると明け方近くに、殺された男の亡霊が現れる。そして、恨みを晴らすために悪神となってやろうと思っていたが、この供養により、心がはれたと成仏した、というものである。 |
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補足説明(伝承について) | ||||||||||||||||
今回、ご紹介する史跡の多くが伝承に基づくものである。 これら伝承の多くは、江戸時代の地誌にまとめられたものからの引用である。記事のある地誌を古い順に列挙すると、宝永6(1709)年に成立した「和気絹」をはじめ、概ね1700年代に成立した「備前国志」「古備前秘録」、1800年代初頭から前半に成立した「吉備温故」「東備郡村誌」となる。また、これとは別に「藤戸旧蹟由来記」が寛政年間(1790年代)にまとめられている。 今回取り上げた史跡の大部分は、「和気絹」に掲載されていることから、遅くとも江戸中期初頭には、この地域にこれら伝承が形成されていたことがわかる。 なお、これらの資料の源平藤戸合戦に関する部分は、「倉敷市史(永山 卯三郎/編 1964年)」で抜粋引用されている。 |
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資料提供者 | ||||||||||||||||
写真提供 川元 一夫氏、篠田 邦治氏、堀家 純一氏(50音順) | ||||||||||||||||
参考文献 | ||||||||||||||||
『藤戸町誌』 藤戸町誌編集委員会/〔編〕 (1955年) 212p 『観光案内 倉敷 総集編・前編』 安原 秀魁/編 (1977年) 171p 『藤戸 謡曲の舞台を訪ねる』 小出 公大/著 (1984年) 52p 『藤戸 岡山文庫』 原 三正/編著 (1991年) 173p 『新修倉敷市史2』 倉敷市史研究会/編集 (1999年) 895p 『倉敷市文化財総合調査報告 第2集』 倉敷市文化財総合調査委員会/編集 (2003年) 123p |
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〔岡山県立図書館メディア工房:平成18(2006)年〕 | |
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