きょうどじょうほうネットワーク > 近衛殿近衛殿がぞうすう:1まいボタンせつめいカテゴリじょうほうきょうどじょうほうネットワーク > 郷土情報ネットワーク > 21 岡山県内の図書館等(県立図書館は除いています) > 鏡野町立図書館きょうどじょうほうネットワーク > 郷土情報ネットワーク > 21 岡山県内の図書館等(県立図書館は除いています) > 鏡野町立図書館TweetTweetメタデータタイトルタイトル近衛殿(コノエデン)きょうどじょうほうのしゅるいきょうどじょうほうのしゅるいえさくせいしゃまたはさくせいだんたいさくせいしゃまたはさくせいだんたい鏡野町立図書館(カガミノチョウリツトショカン)こうかいしゃまたはこうかいだんたいこうかいしゃまたはこうかいだんたい鏡野町立図書館(カガミノチョウリツトショカン)きょうどじょうほうのがいようきょうどじょうほうのがいよう小座から中谷に入り、県道余野上鏡野線を北西に進んでいくと、やがて近衛コミュニティハウスの前に着く。ここからすぐ向こうにうっ蒼とした木立を囲んで塀があり、田舎では見馴れぬ唐破風の優雅な門が道に向かって立っている。これが即ち近衛殿で、関白左大臣近衛経忠(つねただ)(1302~1352)の亡くなったといわれる場所である。ここを関白塚と呼び、経忠の墓所とされている。近衛経忠は実在の人物であるが、近衛殿には、次のような伝承がある。時は南北朝時代、経忠は、一門の花山院師賢卿、法大寺為忠卿を連れて、旧知の明憲法印を頼って弘秀寺に入り、北朝を倒そうと画策したが、北朝方の知るところとなり敵の襲来を受ける。経忠らは弘秀寺より十余町西南に追われ、光岡新兵衛の邸園に逃れ巨石の上で自刃する。これを田中惣兵衛が埋葬したのが、今の関白塚になる。後に萬里小路(藤原)藤房も出家遁出して明憲法印を尋ねて来るが、経忠が亡くなったことを知る。藤房は廟の傍らに小庵を結び弘秀寺に祈念し、南朝の武運と経忠らの菩薩を弔い30幾年の後病死する。この一帯には関係の史跡がたくさんある。昭和48年4月1日 鏡野町指定史跡。所有者:中谷神社(宮司 岡本正宗氏)ばしょばしょ岡山県苫田郡鏡野町中谷字近衛殿4362-1NDCぶんるいNDCぶんるい291.7:中国地方けんさくキーワードけんさくキーワード近衛殿史跡さんこうじょうほうげんまたはいんようじょうほうげんさんこうじょうほうげんまたはいんようじょうほうげん鏡野町学校教育研修所編「鏡野の歴史資料集(1)」研修紀要第2集 鏡野町学校教育研修所,1959. 鏡野町文化財保護委員会編「鏡野町の文化財」鏡野町教育委員会,2003,p.35.たいしょうねんれいたいしょうねんれい全年齢, 高校生, 中学生, 小学生(高学年), 小学生(低学年以下)きょうどじょうほうのげんごきょうどじょうほうのげんごjpnメタデータこうかいねんがっぴメタデータこうかいねんがっぴ2011-02-27このページのURLこのページのURLhttp://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp_c/id/kyo/M2004070112123209712かんれんするコンテンツきょうどじょうほうネットワークつづきはこちらレファレンスデータベースつづきはこちら