御前八幡宮に今も残る「大蛇退治伝説」



御前八幡宮八幡宮地図

「大蛇退治伝説」が伝わる御前八幡宮には、その名残りである〝大蛇の下あごの骨〟が大切に保存
されています。
    ※昭和3年(1928)、日比町から御前八幡宮に大槌島(岡山県側)が寄贈されました。
      御前八幡宮では現在も、毎年4月に島の清掃活動を行っています。 

              

おろち下あご
      古い木箱の蓋を開けると、秘められた歴史のロマンの香りが・・・。

     綿の上に置かれた〝大蛇の下あごの骨〟の大きさは底辺約30cm、 
     高さ約20cm、厚さ約15cm、小さな穴が無数にある化石のように
       も見える三角の塊は、確かに大蛇の凄みのような迫力に満ちています。  

(参考:朝日新聞 平成23年〈2011〉1月7日)





「大蛇退治伝説」とは?

おろち退治弓矢

昔、大槌島には恐ろしい大蛇が棲んでいました。この大蛇はたびたび海を渡り、日比村の山上にあった八幡宮のあたりに現れては、里人たちを恐れさせておりました。
八幡宮の神様は、日比村の住人で剣と弓の達人として知られた加地藤右衛門(かじとうえもん)の夢に姿を現わされ、「大槌島の大蛇が里人たちを悩ませている。お前がこの災いを取り除いてくれ」と告げました。
                     
翌朝、目を覚ますと枕元に弓と矢が置いてあり、藤右衛門はそれらを手に海辺に向かいました。すでに大蛇はやって来ていました。
大きな松に巻きつき、近づく者を一呑みにしてやろうと待ち構えていたのです。
くわっと開いた口からは赤く長い舌がチラチラ、チラチラ、炎のように閃いて、それは見るも恐ろしい有り様でした。
藤右衛門は恐れる気配も見せず進み出て、100mばかり離れたところから矢を放ちました。矢は狙いをたがわず大蛇の喉に発止(はっし)と当たりました。    

さすがの大蛇も、もんどり打って松の木から落ちました。すかさず走り寄った藤右衛門は腰の刀を抜いてとどめを刺し、見事に大蛇を退治したのです。
しかし、同時に彼自身も大蛇が死に際に放った毒気を浴びて倒れ、そのまま無念の最期を遂げてしまいました。

-参考-                            
・『玉野の伝説』  
  河井康夫/昭和53年(1978)
・『玉野むかし・ちょっとむかし』 
  森節子監修/アトリエ みずぐるま/平成10年(1998)
     ※イラスト「グループ絵本の友 な・か・ま」 森節子




おろち退治松ノ木












地踊り〝カッカラカ〟で蘇る「大蛇退治伝説」

たいこ


玉野市には、カッカラカという盆踊りがあります。
撥(ばち)が太鼓の胴を打つ時の音が、カッカラカ、カッカラカと鳴ることからそう呼ばれています。
この踊りには、『常山落城記』や『お菊明神』など、いくつかの口説き(音頭として唄うための歌詞)があり、なかでもよく唄われているのが、この伝説を元にした『武勇のほまれおろち退治』です。ここでは、その全文を紹介します。



和田地区、弘法寺でのカッカラカ(3分)
下掲口説きの下線部分が唄われています。
撮影:平成27年(2015)

『武勇のほまれ おろち退治』

 昔むかしのその昔、昔ばなしの数ある中で、今に伝はる武勇のほまれ、おろち退治の
ものがたり、なるかならぬか知らねども、はずむ太鼓にさそはれて、あらあら読み
あげたてまつる。

はや室町(むろまち)もおわりに近く、時の将軍義澄(よしずみ)が、遠くつかいを朝鮮へ、
送る海路の長旅に、従うもののふ数ある中で、弓矢の道にその名も高き、加地藤右衛
門詮包(かじとうえもんよしかね)は、播磨の沖からやまいにたおれ、医者の薬もきけば
こそ、その苦しみはただならず、船はほどなくひびきの灘、ここで潮(しお)待ちするほど
に、日比の港に立ち寄りて、村長(むらおさ)たよりてあづけらる。
詮包(よしかね)無念におもえども、手足かなわぬこの場の仕儀(しぎ)、くちおしきがいかん
とせん、このままこの地で果つるかと、くやし涙のあけくれに、身体はしだいに弱りはて、
はやこれまでとおぼえける。


このさま知った村人たち、心もとなき旅の空、わけてやまいも重ければ、うちすておけじと
話あい、八幡さまへと願かけし、何卒神の御加護にて、一命たすけ給(たま)われと、かわ
るがわるの合力(ごうりき)祈願、そのかいあってか満願の、ころから詮包愁眉(しゅうび)を
ひらき、かたじけなや村人の、身内もおよばぬ親切と、南無八幡(はちまん)の御神徳、ゆ
めおろそかにおもうべきかと、詮包心に誓いける。

さてそれからというものは、日毎やまいのいゆるにつれて、心にかかるは都のたより、主家の消息武人のほこり、このさきいかになすべきかと、千々に心は迷えども、将軍すでに代がわり、なんのたよりもあらばこそ、それにひきかえこの村の、人の心の温かさ、詮包 ひとりおもえらく、この乱世の、都で立身きそうより、一度は死んだこのからだ、村びとたちの中に生き、毀誉褒貶(きよほうへん)の世を外に、静かな余生送るこそ、わが生きざまと心に定め、日比を墓場と暮らしける。

それから五年十年と、歳月かさねるそのうちに、このごろ気になる港のうわさ、この沖の大槌に、年経(へ)た大蛇(おろち)の棲みけるが、夜な夜ないでてはつり舟に、わざわい及ぼすばかりでなく、海を渡って日比村まで、ぞろりぞろりとはいあがり、田畠を荒らし家畜をたおし、姿見かけし村びとは、はき出す毒気に目もくらみ、おもいやまいの床に臥す。

このうわさ、いちくちにくちとひろがれば、村びとたちの不安日に増し、日暮れとともに大戸をおろし、戸外に出ずる人もなく村は恐怖にふるえける。
そのころある夜藤右衛門、夢の中にておきながたち、われ八幡の使いなり、今宵夜ふけて社の森に、件(くだん)のおろち渡りくる、汝(なんじ)詮包こころして、直ちにこれを除くべしと、かくのたまいてかき消ゆれば、詮包おどろきおきあがり、枕辺見ればこはいかに、たてかけられたる茂藤(しげどう)の、弓にに副(そ)いたる白羽の矢、これぞまさしく正夢にて、八幡神社のお告げなり、われこの村に住みつきて、村びとたちのなさけにより、八幡さまに助けられ、今日までも恙(つつが)なく、すごしきたりしその恩に、報ゆるときの来りしかと、詮包こころを定めける。

神のお告げの正夢なり、なにためらはんこともなし、つと起きいでて身じまいも武人(ぶじん)のたしなみ決死の覚悟、これを一期と沐浴(もくよく)し、かねて用意の白装束、たすきあやなしももだちとって、御下賜(ごかし)の弓矢おしいただき、人目をさけて八幡のやしろさしてぞ急ぎける。

詮包もとよりもののふの、腕に覚えの弓矢の道、かてて加えて八幡の、御加護(ごかご)背負いて心もすわり、まだ深更(しんこう)にはしばし間もあり、さてひとねむりと神前に肱(ひじ)を枕のかりの夢、しばしまどろむそのうちに闇をゆるがす不気味な地鳴り、さっと吹き込む怪しき魔風(まかぜ)、詮包はたと目をさまし、さてこそおろちござんなれ、音の彼方をながむれば、うわさたがわぬおろちの怪物、その丈まさに数十丈、松の古木に登りつき、鎌首もたげてにらみける、その目はさながら大杯か、火を吐く如き大口に、詮包しばしたぢろげど、目をとじ静かに気をととのえ、弓矢かまえて念ずるは、南無八幡大菩薩、すでに捧げしこのいのち、何とぞ御加護給わりて、見事ひと矢でおろちを射とめ、諸人の難渋救い給えと、祈りてかっとまなこをひらき、件のおろちはったとねめつけ、おのれにっくきおろちの妖怪、見事この矢でくたばれと、しぼり切ったる満月の弓矢をひょうと射かけたり。

八幡の、加護に加えて手練の矢、ねらいたがわず脳天の、まなこのあいだに深々と立てば何丈たまるべき、おろちはどっと大地に落ち、のたうちまわりてこと切るる、とたんに天地鳴動し、妖雲にわかに立ちこむれば、詮包思はず気をうしない、その場にどうと倒れける。
しばし妖気のただよううちに、やがて東の空白み、ひびきの灘の朝ぼらけ、日比の港も明けきれば、のぼる朝日もはればれと、このこと知ったる村人の、そのおどろきはいかばかり、お見事なり詮包どの、八幡さまの御加護とはいえ、流石(さす)が手練の弓矢の道、ものの怪(け)怖れぬ剛胆さ、ほまれは近郷近在(きんごうきんざい)と、しだいに四方にひろがりて、後の世までも語りつぎ、ここに残れるおろちのうろこ、うろことともに今もなおを、天晴れなり藤右衛門詮包、おろち退治の武勇伝伝えて供養と読みあげる。
                                                       了

              昭和52年1月 『武勇のほまれ おろち退治』
                         玉野市総合文化センター刊
                                   宮川澄夫編


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 音頭本
 (出典:『武勇のほまれ おろち退治』)