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田渕屋甚九郎(ひなせ物語) − 西念寺 |
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名称(ヨミ) | 西念寺(サイネンジ) |
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− 西念寺山門(撮影:平成18年8月) − |
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説明 | 正式には、「慧高山〔えこうざん〕覚王殿〔かくおうでん〕西念寺〔さいねんじ〕」 宗派:浄土真宗本願寺派 開基:入道釈永仙(高瀬能登守暁明〔たかせのとのかみときあき〕) なお、西念寺という寺号を得て寺に昇格したのは宝永5(1708)年 ※寺伝・縁起等による 本尊:阿弥陀如来木像 |
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参考情報 | 西念寺の縁起によると、安土桃山時代、織田信長と浄土真宗(一向宗)十一世法主顕如〔けんにょ〕上人との間に、11年間にわたる石山合戦があった。その戦いのうち、天正4(1576)年より8(1580)年の約5年間、一向宗門徒に加勢した軍師で、大和の住人であった高瀬能登守暁明(入道釈永仙)がいる。彼が、朝廷の仲介で和議が成立した後の天正10(1582)年に、淡路国津名郡岩屋村(現:淡路市)より漁民40余名を引具して、現在の日生に上陸した。そして、「奥の川」に草庵を建て、ここを永住の地と定め、顕如上人裏書きの絵像を安置したのが西念寺のはじまりだという。 その後、備前岡山藩主池田光政の時代に法難にあい、上人裏書きの絵像は破却され、さらに光政から綱政に変わったばかりの延宝6(1678)年には、大火にあい、建物だけでなく、古文書類なども喪失してしまった。 この焼けた西念寺の復興に尽力した人物が、田渕屋甚九郎であった。 なお、西念寺の山門は、明治維新後の廃藩置県により所領を失った、岡山藩家老土倉〔とくら〕氏の佐伯陣屋(和気町米沢)の門を、明治7(1874)年に譲り受け移築したもので、江戸時代前期の優れた建造物として、平成11(1999)年に日生町の文化財に指定されている。 ※土倉家と西念寺の定紋は、同じ"梅鉢"紋である。 |
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ギャラリー |
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西念寺本堂(撮影:平成18年9月) | 西念寺庫裏(撮影:平成18年9月) | |
※ | 甚九郎の石碑は、画面中央付近の竹やぶで発見された。 |
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参考文献 |
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〔岡山県立図書館メディア工房〕 | |
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