八幡宮と氏子
 村人に守られ続けた鎮守様
寛文7(1667)年の池田藩による寛文寄宮のとき、土田村に「八幡宮」が鎮座していたことが記録に残されていることから、この「八幡宮」は、時代こそ定かではないが古くからあると推定される。
そして、「八幡宮」は、土田の氏子により今日まで守り続けられている。
ここでは、その歴史を追い、八幡宮と氏子とのつながりを整理してみた。
ちなみに、天津神社の松嶋宮司によると、中世、戦いの際は、神社を陣屋として使われることが多く、勝っても負けても証拠を残さないようすべて焼き払われたという。しかし、「八幡宮」は武士の守り神であり、手はつけられなかった。同じく土田にあった天神宮(後の天津神社)も「八幡宮」とともに祭られていたおかげで、陣屋にされたり、焼き払われたりという災難をまぬがれたそうだ。

※以下の文章の制作にあたっては、天津神社宮司松嶋氏提供の文献を利用させていただいた。ここに記して謝したい。

寿永2年
  (1183)
備前守に源十郎行家補任
木曾義仲とその叔父である源行家は、7月に平家西走後、京の都に入った。
同年8月、行家は、従五位下備後守〔びんごのかみ〕に叙任され、数日後に備前守として着任した。

寛文7年
  (1667)
土田村の「八幡宮」の文献初出
「御寿宮寛文七年五月下旬御鎮座」と岡山大学附属図書館所蔵の「池田家文庫」に記録されている。

正徳2年
 (1712) 
寄宮の記録
上道郡の十二社は大多羅〔おおだら〕へ移して寄宮となると「備陽国誌」に記載されている。

寛政5年    (1793) 石灯籠の記録
土田地区を流れる中津川のほとりの石灯籠には、天神宮・八幡宮と相殿されている旨刻まれている。

享和元年
 (1801)
石灯籠の記録
天津神社の石灯籠(出村中)に天神宮・八幡宮の銘がある。

文化13年
 (1816)
天津神社宮司松嶋家文書
「土田八幡宮棟札
八幡宮御本殿奉造立當村産子
願主 満籐宗九衛門貴忠」
と記載がある。

文化14年
 (1817)
石灯籠建立
藤田久之氏が石灯籠を一基建立。
刻まれた文字は、
 正面 「金毘羅大権現・瑜伽大権現」
 東面 「文化十四年六月吉日藤田久之竣」
 西面 「八幡宮天神宮」
とある。

文政9年
 (1826)
氏子により鳥居建立
氏子が鳥居を建立した。
「文政九丙戌年中夏日」と刻まれている。

天保5年
 (1834)
絵馬奉納
拝殿の東面に武者の絵馬『義家観雁図』が奉献された。
 → 紹介ページを表示

天保8年
 (1837)
絵馬奉納
拝殿の西面に大願成就の絵馬『新羅退治』が奉懸されている。
 → 紹介ページを表示

明治10年
 (1877)
「八幡宮」の存置願が許可され、無格社となる。

明治31年   (1898)
幣殿・拝殿の建替・改築
『御殿地形改築及幣殿拝殿新築』の額には、
「神官 前川清彦
 新築委員19名
 棟梁 小川三五郎他3名」
とある。

明治42年
 (1909)
大神神社に合祀
岡山縣知事谷口留五郎へ神社合祀願を申請し、大神神社へ合祀された。
右写真の「遥拝石」は、合祀を記念し、宇佐八幡宮を望む地に置かれた。

昭和21年
 (1946)
神社本庁が設立されたが、「八幡宮」は、登録されず無格社となる。

昭和56年
 (1981)
鳥居及び拝殿の修理
「八幡宮」の鳥居修復及び拝殿の一部修理を実施した。
竣工は、昭和56年2月吉日と記録され、発起人は、藤田健、光籐萬吉とある。

現在
(2007)
写真は、現在(平成9年4月以降)の「八幡宮」神社総代の光籐傳氏である。
光籐氏は、境内の掃除を続けていたが3年ほど前からは、西分の町内会も参加するようになった。

長い歴史の中で、土田村の「八幡宮」は鎮守として氏子に守りつがれてきました。
かつて、村人は「八幡宮」のもとで、一生懸命働き、豊かな田畑をまもり、郷土を大切にする心をはぐくみ続けてきました。
これからも郷土の文化を守り伝えていきたいと思っています。

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