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◆説明 |
「内山下尋常高等小学校校庭」 |
明治20(1887)年5月、岡山区高等岡山小学校として小橋町国清寺本堂に設立。同23(1890)年5月に旧西丸(現、岡山市丸の内)に移転した。その後名称は、明治41(1908)年4月から内山下尋常高等小学校、昭和14(1939)年4月から内山下国民学校と改称した。
昭和20(1945)年6月29日の空襲によって岡山市中心部は焦土と化したが、内山下校舎は焼け残った。このため、庁舎を失った岡山県庁、岡山市役所が移転。戦後も岡山県庁が出た後は占領軍が入るなど、昭和24(1949)年10月に岡山市役所が引き上げるまで学校としては一部しか使用できない状態であった。
校庭にある西手櫓(国指定重要文化財)は廃城や戦災にも生き抜き、現存している。
卒業生には横綱常の花、国吉康雄、内田百閨A三木行治などが名を連ねるが、岡山市中心部の児童数減少により平成13(2001)年3月、閉校するに至った。
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「栄町鐘撞堂」 |
鐘撞堂は警報と時報を知らせる目的で寛文6(1666)年3月、栄町(現、岡山市表町2丁目)に設置された。天保6(1835)年には改築され、鐘楼は2階建から3階建となった。
鐘撞堂の鐘は、実際に時刻を告げる鐘を撞く前に、軽く3回撞くのが常であった(「捨て鐘」という)。
明治4(1872)年の廃藩置県までは岡山藩が鐘撞堂を管理しており、昼夜4人交代で鐘を撞いていたが、廃藩に従い自然休鐘となった。
その後、小畑定七・松の夫婦が堂守となり復活。明治35(1902)年に定七が病死後は松が1人で毎日、毎時の鐘を撞いた。昭和になるくらいまで松が1人で堂守をしていたが、高齢により辞めた。
鐘撞堂は昭和20(1945)年6月29日の空襲で焼失した。このとき焼けただれて上半分のなくなった釣鐘は鐘撞堂の5分の1復元模型とともに岡山市デジタルミュージアムに展示されている。
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◆参考文献 |
「内山下尋常高等小学校校庭」について |
『創立六十年誌』 岡山市立内山下小学校 1949
『創立百周年記念誌』 岡山市立内山下小学校 1986
『創立百十周年記念誌』 岡山市立内山下小学校 1997
『岡山市史 宗教教育編』 岡山市史編集委員会編 岡山市 1968
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「栄町鐘撞堂」について |
『岡山市史 第4巻』 岡山市役所編 明治文献 1975
『岡山経済 86号』(栄町の鐘撞堂物語」) 岡山経済研究所 1985
『岡山市医師会報 180号』(「表八ヵ町と鐘撞堂」) 岡山市医師会 2006
『岡山日日新聞』(平成17年7月12日)
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〔岡山県立図書館メディア工房〕 |
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