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◆説明 |
「城下の淵」 |
宇喜多秀家は岡山城工事に着手したと同時に旭川の水路変更も行っている。以後、旭川は岡山城本丸の北と東を流れ、天然の堀としての役割を持つに至った。
水路変更以前の旭川は、上道郡中島村と竹田村の間で東南に向かい、瓶井山につきあたって西へ方向を転じ現在の相生橋の下手へ出る流れだった。
岡山城北側と後楽園南側を結ぶ月見橋が架橋なったのは昭和29(1954)年7月のことである。それまで岡山城と後楽園を結ぶ交通手段は船しかなかった。
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「岡山城」 |
天守の外壁に黒漆が塗られていたため烏城とも呼ばれる。
宇喜多秀家が現在の地(岡山)に岡山城工事を着手したのは天正19(1591)年のことである。これより以前は岡山の西隣にある石山(NHK岡山放送局跡地)にあった。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で宇喜多氏が亡びると小早川秀秋が入城したが、2年ほどの治世で死亡する。その後、明治2(1869)年の版籍奉還とともに国の所有となるまで代々池田氏が治めた。
慶長2(1597)年に落成した天守は明治の廃城後も残存し国宝に指定されていたが、昭和20(1945)年6月29日の空襲で全焼した。昭和41(1966)年に天守ほかの再建工事が完成した。
なお、池田利隆の建築になるという西丸の西手櫓、池田忠雄時代といわれる本丸の月見櫓はともに国指定重要文化財となっている。
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◆参考文献 |
「城下の淵」について |
『岡山城史』 岡山城史編纂委員会編 岡山市 1983
『岡山後楽園史 通史編』 後楽園史編纂委員会編 岡山県郷土文化財団 2001
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「岡山城」について |
『岡山城史』 岡山城史編纂委員会編 岡山市 1983
『岡山城に就て 旧天守閣実測図』 仁科章夫著 岡山市立図書館古文書を読む会 1980
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〔岡山県立図書館メディア工房〕 |
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