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◆説明 |
「臥龍松」 |
和気郡香登村大字大内にあった松の古木。昭和21(1946)年の松くい虫被害で枯死している。
樹高3間(5.45m)、地上3尺(0.90m)の周囲11尺2寸(3.39m)、枝が横に伸びること東西方向に168尺(50.90m)、南北方向に94尺(28.48m)であった。
一ノ井氏によって植えられたという松の樹齢には諸説(※1)あるが、江戸時代後期には既に名木として知られており、文化年間ごろ(19世紀初頭)から明治維新まで池田家より肥料として毎年米3石などが与えられていたという。
註(※1) 元中9年(1392)・・・『岡山県名勝誌 復刻版』
正徳3年(1713)・・・『和気郡誌』
延享4年(1747)・・・『岡山県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第2冊』
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「閑谷黌」 |
庶民の子弟の教育を主体とした岡山藩の郷校(郷学)。
寛文10(1670)年、藩主池田光政は津田永忠に、和気郡木谷村延原に大規模な学校の設置を命じ、地名を延原から閑谷へと改めた。日本最初の郷校であり、岡山藩学校とともに全国的に有名な存在であった。
開学以来、幾多の盛衰を迎えながらも施設の大半がよく保存され、旧閑谷学校が国の特別史跡、講堂が国宝など、その多くが文化財に指定されている。
長い歴史の中では山田方谷を督学に迎え、武元登々庵・君立兄弟、大原孫三郎、正宗白鳥、藤原啓らが学んでもいる。
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◆参考文献 |
「臥龍松」について |
『岡山県名勝誌 復刻版』 高千穂書房 1975
『岡山県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第2冊』 岡山県史蹟名勝天然紀念物調査会編 名著出版 1974
『嘉永三年庚戊九月備前和気郡大内村の内 臥龍之松図』 山本慶一 1969
『臥龍松真写』 香門篤 1887
『ふるさと探訪』 三村章夫著 三村寿美子 1994
『和気郡誌』 私立和気郡教育会編 作陽新報社
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「閑谷黌」について |
『増訂 閑谷学校史』 福武書店 1987
『岡山県教育史 上巻』 岡山県教育会著 山陽新聞社 1981
『閑谷学校』 今村新三著 山陽新聞社 1990
『特別史跡閑谷学校』 谷口澄夫、神野力文 福武書店 1975
『閑谷学校の建造物』 備前市歴史民俗資料館 2004
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〔岡山県立図書館メディア工房〕 |
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