大正15年5月 岡山市写真帖
岡山案内 総説 1
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◆文字 岡山案内 総説 1 
岡山案内
 総説

 岡山は徳川幕政時代に在りて、水戸の西山公及び会津の鷹山公
と共に、世に三賢守と称せられし池田芳烈公の城下として、夙に
其の名を海内の人士に知られ、以て「わたしや備前の岡山育ち、
米のなる木をまだ知らぬ」の俚謡や、「越中がこされぬ山が二つ
ある。京で中山、備前岡山」の狂歌の如き、今尚人口に膾炙しつ
ゝある中国屈指の都市なり。今其概要を紹介せんとす。

▲位置広袤と戸口  我か岡山の市域たる、備前国の西南隅に位
し、旭川の河口なる三幡港より遡ること実に二里余の処に在り。
備前、備中、美作の三国を管治する岡山県庁の所在地たり。東は
上道郡に接し、南、西、北の三面は御津郡と境界を交ふ。域内の
地形恰も其の西北方伊島付近の地を爪先と為し、西方一帯の地を
以て足趾部に擬する短靴の如くにして、直径最長東西一里二十六
町、南北一里二十九町、面積一方里五分三厘にして、戸数二万七
千五百三十三戸、人口十二万一千五百十二人を有せり。

▲地勢及び街衢区分  本市の地域は、由来旭河口の沖積層にし
て、其の大部分は半田山南麓の平野に占在し、東端門田の東部及
び西北隅なる万成、伊島、三門付近の地に於いて、丘陵の起伏す
るものあるの外、地勢に著しき高低なく、市内内山下、石山付近
より石関町に至り、及び上之町の北端に於いて稍々隆起せる処あ
り。以て市域の脊梁型を為し、旭川の水、中央部を北より南に貫
流し、街域を東、西の二大部に区画す。一を旭東と称し、他を旭

◆説明 総説 1「位置廣表と戸口」「地勢及び街衢区分」◆参考文献
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 〔岡山県立図書館メディア工房〕
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