大正15年5月 岡山市写真帖 | |
総説 2 | |
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◆文字 | 総説 2 |
西と云ひ、更に旭東を十三箇町に、旭西を九十四箇町に小区分せ り。 ▲沿革 我が岡山が市街地として以て其の殷盛をなすに至りし は、今より約四百年前天正元年宇喜多直家の此の地を略有して、 居城を置き、同年九月之に移り、城下造市の経営に努めしに權輿 せりと云ふ。是より先正平年中既に名和長年の一族に上神高直と 云ふ者あり。南朝に仕へて此の地に築城し、又永禄年中より金光 宗高なる者此の地に居城せし等のことの旧記に載するもあるも、 当時は石関町及び上中下出石町地方に於いて僅かに民家を有せし 田舎村落の寂寥地たりしに過ぎざりしものゝ如し。直家の卒する や、其の子秀家継ぎて岡山城に居り。其の臣中村二郎兵衛を挙げ て奉公と為し、城楼の改築を行ひ、更に城下市坊の繁栄を策す。 是より市域大に繁昌に赴けり。其の後関ヶ原の役起り、秀家の石 田方に属し敗れて遁竄するに至るや、城下の経営爰に一頓挫をな せるのみならず、徳川東照公が秀家の遺臣の岡山市中に潜匿して 、その後患をなさんことを慮り、火を放ち当時の街市大部分をし て烏有に帰せしめたりしと雖も、尋いで小早川秀秋来り、又城下 の繁栄を図り、不幸嗣なくして其の封を失ひしも、池田氏其の後 を承けて、岡山城の主たるに及んで是より累世大に経理する所あ り。廃藩後に至りては市勢益々発達し、其の市域の如き明治十二 年末調査に依れば、実に周囲二里十七町十間、直径東西二十町二 十間、南北二十八町五十間、街衢八十三、反別二百八町六反余を算 せしが、同二十二年六月市制施行の際市区域に変更あり。更に三 十一年八月市区を拡張し、東西一里十三町五十二間、南北一里十 |
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