水谷 勝隆みづのや  かつたか

 水谷勝隆は慶長2年(1597年)に水谷勝俊の嗣子として京に生まれた。慶長5年(1600年)の関ヶ原
の戦いの時には勝俊は関東へ下っており、幼い勝隆は石田三成によって人質にされかねない状況にあっ
た。それを近衛龍山(前久)にかくまってもらうことによってまぬがれた。龍山は西軍である島津氏の
落ち武者もかくまっており、東軍・西軍に関係なく救済していたのである。

 勝隆は慶長6年(1601年)に関東に下り、祖父水谷正村の築いた下野国久下田城へ入る。水谷氏は代
々結城家に属していた。徳川家康の子秀康はこの結城家の結城晴朝の養子であった。

 父勝俊が慶長11年(1606年)に亡くなったため勝隆は10歳で父の遺領を継ぎ、常陸・下野の両国内に
おいて3万2千石を領有し、常陸国下館城に居を移した。慶長13年(1608年)には従五位下伊勢守に叙
任された。

 勝隆は大坂の役の際、徳川方の酒井家次の組に属して活躍している。勝隆の最初の正室は家次の娘で
あった。死別してから迎えた正室は寺沢広高の娘であった。寺沢広高の子が堅高で、寛永14年(1637年)
の島原の乱の際に天草を領有していたため乱の責任を問われ、天草領4万石を没収された。その後堅高
が自害して家名は断絶する。

 勝隆は寛永16年(1639年)に転封となり、備中・播磨両国内に5万石を領有して川上郡成羽に入った。
成羽川の水路変更と新陣屋の建設を行ったが、わずか3年で再び転封となる。

 寛永19年(1642年)に備中国松山城に入り、播磨国内の領地1万石を備中国へ移した。

 勝隆は土木事業に堪能な人材を抱えていたらしく、様々な事業を展開した。長尾外新田の開発を手始
めに、船穂・玉島・上成・爪崎の新田開発を行った。また、玉島港築港工事や高瀬通しと呼ばれる運河
開削を行っている。鉄山の開発にも力を尽くし、製鉄業を盛んにしていった。

 勝隆は寛文4年(1664年)の68歳で死に、常陸国下館の定林寺に葬送された。

 勝隆の跡を継いだのはその子勝宗で、4万8千石を領有した。勝宗の弟勝能は2千石を受け継いだ。
勝能及びその子孫は代々旗本として将軍に仕えていく。

 勝宗は父と同じく土木事業や新田開発に力を入れ、松山藩の発展に大いに貢献した。備中松山藩は勝
宗の時に新墾田2千石を合わせて再び5万石の石高となる。

【参考文献】

 「新訂寛政重修諸家譜」(続群書類従完成会S40)
 「成羽町史通史編」(H8)
 「高梁市史」(S54)

     玉叟山定林寺         黄薇中州地理図
        ▲玉叟山定林寺               ▲黄薇中州地理図(岡山県立図書館蔵)
     水谷勝隆、勝美の五輪塔がある。      水谷伊勢守は水谷勝隆、水谷左京亮は水谷勝宗を指す
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『岡山県総合文化センターニュース』No.435号、H14年9月
                              

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