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以前、百間川を境に、西の地域は岡山市、東の地域が 西大寺市でした。 現在は、岡山市の合併に伴い共に岡山市です。 ところが、同じ岡山市になったとはいえ学区はそのままなので、 中川橋の西岸の一部が東岸の可知小学校学区のため、 橋を渡って通学しなければなりません。 そこで、児童が自動車と隣り合わせでは危険と、平成17年8月、 南に歩道専用橋が完成し、自動車専用橋と並行して2本並んで います。 (左が歩道専用橋) |
笄(こうがい)の井戸 |
中川橋の少し北、ちょうど百間川の中間地点に「笄(こうがい)の井戸」の説明の立て看板があります。 その少し南に井戸が残されています。 戦国時代(1573~1592年)、傍の高さ56mの正木山の頂上に、正木大膳正康の居城があったと伝えられています。 宇喜田直家に攻められた落城の前日、大膳の妻玉尾の方が姫君初瀬を抱いて馬に乗り、山を駆け下り井戸に 身を投げました。後にこの二人を供養していたところ、井戸の水面にくし・こうがいが浮かび上がったそうです。 |
中川橋から南を眺めた川の様子。橋は海吉橋です。 川はここから一気に拡がります。そして徐々に幅を拡げ河口へと流れます。 ここから堀替橋の北までの河川敷は、車が入ることができません。 改修直後から何年かは乗り入れることができたのですが、柵の無い 狭い河川敷は危険でもあり、諸事情で鎖が掛けられてしまいました。 今はウォーキング、ジョギング、犬の散歩、あるいは自転車の人達が利用しています。 右手に見える建物は富山中学です。緑地が整備された当時は生徒達がテニスコートで楽しんでいました。現在、テニスコートは使われていません。 |
海吉橋は、県道28号線「岡山牛窓線」で、住民は 「西大寺線」と呼びます。 山は芥子山。南から見る芥子山は、西からのそれと 様相を変えます。 |
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海吉橋の東岸のすぐ北に ゲートボール場があります。 その北に隣接して百間川記念碑があります。 大きな万成石の一枚岩の石碑です。 先人の功績をたたえて、建設省・岡山県・岡山市が 百間川築造三百年を記念して、昭和61年(1986年) 10月に建てたものです。 |
海吉橋と百間川流域の通行の流れ |
岡山市街と西大寺を結ぶ重要な路線である県道28号線は、各戸が自動車を持たない時代、バスは5分毎に走っていました。但し、堤防が、一部に切り込みを入れ増水時に土嚢やゲートで塞ぐ陸閘(りっこう)という形であったため、大雨が降る度に道は浸かり、バスは通行不能となりました。 改修が進み橋が作られると、大雨でも通行可能になりました。しかし、自動車が普及し、バスの本数は半分に減りました。でも車が増えた分、朝のラッシュアワーともなれば、東山峠から海吉までは午前8時過ぎまで渋滞が続いたものです。ところが百間川側道整備に伴い、橋・側道が充実すると、自動車の流れはそちらに移りました。 今は、むしろ百間川沿いの道の方が通行量は多いのではないかと思われるほどで、岡南、東岡山方面、西大寺、岡山市街、その他あらゆる方角へ百間川の両脇の側道、橋々を自在に利用する交通網ができあがったのです。 |
海吉は海だった |
海吉やその西の福泊(ふくどまり)という地名から想像できるように、ずっと昔はこの辺りは海でした。つまり、操山や芥子山は海岸線で今でも共に貝塚の貝殻が出てきます。それにしても「海の吉」「福が泊まる」なんて、なんと縁起の良い名前なのでしょう。 福泊は1647年、海吉は1659年に干拓された地域だそうです。ちなみに海吉は一時期「かいめん」と言われていたということです。 |
この辺りの河川敷も昭和50年頃までは、のどかな水田風景でした。 昭和50年過ぎ頃から、この周辺の水田は一気に造成され宅地へと変わっていきました。それに伴いレンゲソウ畑がどんどん減少する中、百間川の河川敷はレンゲソウ畑が広がり、まるで別天地のように感じられたものです。 現在の高水敷は、通常は普通の河川敷ですが、雨が降り続いたり大雨だったりの時はひたひた程度に一面水浸しになります。そのため、河川敷は立派な芦原となりました。 低水路と高水敷に分けられたばかりの頃は、焼き原が行われ、春には青々とした新芽が顔を出したものでしたが、焼き原が中止になってからは自然に戻ってしまいました。 以前は河川敷を散歩したり自動車も通ったりで人々が楽しんでいました。しかし、堤防が高くなり舗装されると、人々はその上を通り自動車も乗り入れられなくなったので、ノイバラが生い茂り、ますます人々は河川敷に入れなくなりました。 写真中央部の黄緑の塊がノイバラです。ノイバラは、大きいものになると幅3m~4m、高さ2mくらいになっています。トゲがあるためそのままにされているのでしょうが、これから益々大きくなるかと思うと不気味です。でも5月下旬、このノイバラが花を咲かせると、白い塊が点々と彩り結構素敵な風景なので、皮肉なことです。 |
川の西側、河川敷からの橋。 | |
3年ほど前、堀替橋東側の北方面に百間川側道としては 最後と思われる自動車道が、完成しました。 ここから中川橋まで2kmほど信号が無く真直ぐで見通しも良いため、 海吉側からこちらにまた新しい流れの変化が生まれました。 |
堀替橋の南に東の西大寺方面から流れてくる砂川(すながわ)が合流します。 平成23年現在、砂川周辺は堤防を高くしたり橋を付け替えたりと改修工事が進められています。 百間川は砂川と合流したことで、さらにぐっと川幅を増します。 奥の橋は岡山バイパス。 |
堀替橋の河川敷から望む。 この辺りは釣り人が多くいます。 何の魚か知りませんが、雨の降りそうな気配の時は、50cmもあろうかと思われる魚が、あちこちで川面から飛び跳ねます。 |
岡山バイパスと百間川橋 |
岡山バイパスは、岡山市倉敷市における交通混雑の緩和と交通安全の確保のため、岡山市東区浅川(吉井川の少し西)と倉敷市大西(高梁川少し東)に渡る延長38.3kmの国道2号線の大規模バイパスです。 現在は正式に2号線となりましたが、地元民は愛称としてバイパスと呼んでいます。 岡山バイパスは昭和38年に事業化され、41年に都市計画決定、用地着手に取り掛かり、43年に工事が始まりました。 ここ百間川橋の上り線は昭和48年に岡山市君津と倉田間が開通し、下り線は昭和54年に完成しました。 私事で恐縮ですが、学生時代この話が持ち上がり、「バイパスってなあに?」「なんでも長い土手を作ってその上を車が専用で走るそうな。」なんとも訳が分からず、想像がつきませんでした。今はしっかりその恩恵に与っています。 |
以前の清内橋が残されています。奥が現在の橋。 橋の右手の緑地の向こうは田畑が続いていた所です。 |
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地図を見てください。右の青い部分が以前の川、現在は左斜線部も川になりました。以前より如何に川幅が広くなったかよくお分かりだと思います。 当時は大雨の時、海吉橋のように水には浸かったのですが、バスがぎりぎり通れる範囲で バシャバシャと水しぶきをあげながら通過したものです。もちろん普通の車は通れませんでした。 このバス路線は、『沖元経由西大寺行き』路線で1時間に1本程度ですが、地元民の貴重な足となっています。 旭川から金岡までの道は、下記に述べる沖新田の干拓時作られ、沖田神社前の道(県道215号)なので「宮道」と呼びます。 |
沖新田(おきしんでん) |
岡山平野は、時代と共に干拓され面積を増やした土地です。 この清内橋以南の地域は、江戸時代に池田綱政(いけだつなまさ)が津田永忠(つだながただ)に命じて干拓させた土地で、沖新田と呼ばれます。 当時海だった所に百間川を延長した形で新田の中央を貫流させました。そして河口の両脇に大水尾(おおみお)(遊水池)を設け、数ヵ所に唐樋(からひ)を築き、排水を促し潮水の逆流を防ぎました。 (※1 満潮時には樋門を閉め、海水の逆流を防ぎ、干潮時には樋門を開け、遊水池に溜まった水を海に出す。) (※2 下流一覧地図参照。岡東浄化センターが作られる以前は緑斜線部も池でした。) 1691年に命じられた津田永忠は、1692年6月に着工。惣廻り堤を9つに分け競争させたので急ピッチで進められ、1918ヘクタール(約6km×4km)というスケールの大きな干拓にもかかわらず、7月には完成しました。用水、潮止め堤、樋門などすべての工事が完成したのは、1693年12月のことでした。 新田は一番から九番という地名(二番、八番は用水名)に区分けされ、現在でも三蟠(さんばん)、九蟠(くばん)という地名が残っています。今でも地元の人達は、四番(しばん-現在の桑野・沖元)、五番(ごばん-光津)、六番(ろくばん-政津)などと親しみを込めて使います。 ちなみに、百間川の東地区は政田学区ですが、光津(こうつ)、政津(まさつ)は、綱政の父である池田光政藩主の名前から名付けられ(昔の光政村)、君津(きみつ-七番(しちばん))、升田(ますだ-八番)は津田永忠の名前から名付けられた(昔の津田村)地域でなりたっています。そして「光政」と「津田」の一文字ずつ取って、政田小学校となりました。 また津田永忠の像が、次に述べる沖田神社の境内に建てられています。 |
沖田神社と 「おきた姫」 |
平成23年現在、沖田神社は本殿を新築中です。 以前の木造は倒され、コンクリート造りに 変わります。 |
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沖田神社は、沖新田の産土神(うぶすながみ)として、1694年に建立されました。当初は今の岡山市福島にありましたが、土地が低いため境内まで水が入り込むこともあり、1709年現在の地に移されたのです。 主祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、などですが、特筆すべきは「おきた姫」です。 沖新田の最後の潮止め工事が困難を極めたため、若い女性が人柱として身を捧げました。お蔭で工事は無事完成しました。この女性は「おきた姫」と呼ばれ、本殿の床下に祀られています。 平成8年6月、本殿裏に「おきた姫神社」が建立されたそうです。 |
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もう一つ、沖田神社では本殿境内の末社として道通宮(どうつうぐう)があります。この宮は百間川とは直接関係ありませんが、説明を付け加えたいと思います。 今から約400年前の備中高松落城の際、城主の息子が道通様のお蔭で無事逃走できました。そこで逃れられた土地に道通宮を祀ったのですが、子孫が沖新田に移り住み1800年沖田神社境内に移したということです。この道通宮も住民に慕われています。 これらのことから、沖田神社は沖新田全域の氏神様として信仰されています。 |
清内橋東岸の南を望む。(右は土手上の道。車は入れません) この道を真直ぐ行くと岡東浄化センターに突き当たります。 そのもう少し東に六番川水の公園があり、平成17年第60回国民体育大会の時、体育館が会場になったので、この道もその時整備されました。 政田学区は麦生産推奨地域で、他の所より比較的麦の作付が多く、6月には麦秋の季節となり、麦田は黄金に輝きます。 右から2番目の山が金甲山です。 ちなみに、清内橋から東を望むと、春を除き小豆島が思いの外大きくはっきりと見えます。 |
清内橋から河口まで
※ 清内橋で百間川の橋は終わりますが、河口までは距離がありますので、
ちょっと寄り道したいと思います。
清内橋の南から、百間川はボートコースが設けられ、岡山大学ボート部練習場になっています。若人が掛け声をかけながらボートを漕ぐ様はさわやかです。年に何度か大会のようなものがあるのでしょう。観客用のベンチが続いています。 数日前に雨が降ったので、河川敷はきっと水に浸かったのでしょう、多くのゴミが打ち上げられていました。 |
百間川の植物たち |
キンケイギク |
上流の穝川原橋で オニバスの話を取り上げましたが、百間川には実に多くの植物が自生しています。 左の写真は、ボート部観客席の足元で咲いていたもので、クローバの白とニワゼキショウのピンクが可愛く、思わず写真に収めてしまいました。 同日、海吉橋周辺の緑地では、クローバ、ニワゼキショウ(こちらは白)とコメツブツメクサの黄色が綺麗でした。 花が綺麗な野草は、ウォーキングの楽しみでもあります。 春には、オオイヌノフグリから始まり、タンポポ、カラスノエンドウ、スミレなどからマツバウンランへ。 セイヨウカラシナやウマノアシガタ(キンポウゲ)が群生している地域もあります。 ウマノアシガタがキラキラと輝きながら揺れる様子は結構素敵です。 ブタナ(タンポポモドキ)がだらだら咲き続けていると、アザミやコマツヨイグサが咲き始めます。 そして夏になり、時にはネジバナなどを見つけると嬉しくなってしまいます。 秋。以前は黄色のセイタカアワダチソウと銀色の芦やススキの穂のコントラストが、日差しを受けてキラキラ光る様は、秋を感じさせてくれました。現在は早め早めの除草のお蔭で、セイタカアワダチソウは背丈ほどまで成長せず、50cmくらいの高さで黄色の絨毯になります。 「ススキの穂」と記述しましたが、10年ほど前、植物に詳しい友が、「百間川にはススキは無い。ススキに見えるのはオギだ。」と力説していましたので、多分今もそうだと思います。 なぜなら、ススキは日当たりの良い山野に生え、オギはススキに大変よく似ているのですが、水辺などの湿った場所にしか生えないからです。ただまれに混生することもあるそうです。 これらの野草も年々様変わりしています。 自動車の通行量が増えたことで、様々な種が運ばれてくるからです。マツバウンランやブタナなどは、20年前くらいに一部の地域で見られただけでした。今やその地域はとても広くなっています。 近年は旭川沿いに群生しているキンケイギクが徐々に増えてきました。 これからもどんな野草が咲くか楽しみです。 |
ベンチの写真を撮った所から南への百間川。 大河のように見えます? |
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百間川の西岸側道の桜並木。 |
岡山ふれあいセンター |
桜並木のほんの少し西に岡山ふれあいセンターがあります。 平成5年高齢者福祉、生涯学習、保健福祉を目的として作られました。 浴場、アスレチックコーナーも完備、各種講座や遊具の利用などで、年齢を問わず市民が活用しています。 岡山バイパスから桜並木まで2km余り、まったく信号が無い真直ぐな道です。 そこから西にふれあいセンター前の道を西に横切り、岡南大橋から岡南地域へ、 あるいは児島大橋を渡って児島・玉野方面へと百間川沿いの道は利用者が増えるばかりです。 |
西岸から撮った河口の景色。 平成23年5月31日まで浚渫工事のための橋げたが手前に見えます。 |
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河口西に「百間川河口水門今昔のあらまし」の立て看板が あります。 それによると、現在の水門は、昭和36年の第二室戸台風に よる大災害を契機として、5年の歳月をかけ昭和43年3月に 竣工されたということです。 (写真をクリックすると大きくなります。) |
水門。 |
新しく工事中の水門。 現在の水門のすぐ東。 |
百間川河口西からの景色。 |
河口東からの景色。 |
水門を出たら、児島湾へ。 百間川は、これでおしまい。
私達の小さな旅も、これでおしまい。
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