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中流 −沢田橋から米田橋までー



7、沢田橋 (さわだはし)

さわだはし
    

沢田

※ 沢田は、岡山市街地の東に隣接する操山(みさおやま)の北に位置し、春はタケノコ、秋には柿の産地として有名です。

沢田の風景
 沢田の風景。山には竹藪が見られます。
柿畑
沢田の柿畑。


 操山公園里山センターと操山  

 沢田の村の奥、操山の北懐に操山公園里山センターがあります。
 操山の見どころ情報が提供されたり、各種イベントも行われたり、
住民のコミュニケーションの場として、あるいは操山ハイキングの
拠点として利用されています。 
里山センター
操山案内板  ここで少しだけ操山のことを述べます。

 操山は標高169mで岡山市街から気軽に登れる山として、多くの市民に親しまれている山です。
 西は朝日高等学校の近くや護国神社から、南は円山(まるやま)や池田家の菩提寺でもある曹源寺から、あるいは東の海吉から、そして北は沢田からと、四方八方から登ったり下りたりでき、山道は縦横に巡らされています。
 旗振り台と呼ばれる展望台を中心に、古墳も多く点在し、明禅寺城跡やカナメモチのトンネル、麓には多くの神社仏閣があり、楽しみは尽きません。

(写真をクリックすると大きくなります。) 

沢田橋の河川敷 沢田橋から見た河川敷。
手前の広場で秋に沢田の柿祭りが行われます。

百間川は川幅を広げ、河川敷も広くなります。
この中流地域が百間川緑地で一番幅の広い所です。
その広さを利用して野球場、テニスコート、サッカー場、
バスケット場、遊具広場などが充実しています。
珍しいのは、リモコンカーのレース場があることでしょうか。 


 百間川の変遷について

 江戸時代から昭和40年代までの百間川は、通常時は平坦な水田地帯の中に、一定間隔で並行する2本の堤防が河口まで連なるものでした。堤防の高さは2m前後で、これに切り通しを設けて陸閘(りっこう)という形式で、道路や鉄道を通していました。川は、その中央部分に細い用水路として存在していたのです。
(※ 陸閘とは、河川などの堤防に切り込みを入れ、通常時は通行でき、増水時にはゲートなどで塞いで、暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設。)
 当然放水時や大雨が続くと水田は水に浸かり、時には収穫が得られないこともありました。江戸時代はこれを踏まえて年貢は安く、昭和の人達もこれらを承知で田畑を作っていました。

 けれど、昭和26年の第2室戸台風を機に、昭和38年から改修が始まり、まず河口部水門と堤防が整備されました。
 その後も数々の改修が行われたのですが、大きく変わったのは、昭和46年〜50年初めにかけて、建設省(現・国土交通省)が河川区域内の水田の買収を進め、耕作地が消滅したことです。この時、陸閘で河川敷を横切っていたほとんどの道路が橋に架け替えられました。
 その後の改修に伴い、関連用排水路も整備されました。
 さらに昭和60年代から平成にかけて、橋の建設に伴い、堤防は4mほどの盛り土の土手となり、土手の外側に道路を設け、土が落ち着いてきた頃、堤防の上もアスファルトになりました。そして、橋もさらに整備され、高水敷には公園施設、テニスコート、野球場などが設けられ緑地となり、対岸はできるだけ手を加えない自然公園として自転車道(マラソンコースとしても利用)を設ける現在の姿となりました。
 現在、地元住民有志により清掃活動も行われています。


 百間川遺跡
遺跡近くの河川敷   この辺りにはかつて百間川遺跡がありました。
 百間川遺跡は、改修中に発見されたもので百間川河川敷の下に4つの集落遺跡が存在し、昭和52年から発掘調査が行われました。原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基・今谷遺跡、米田遺跡に分かれます。縄文後期から中世までの複合遺跡だそうです。
 沢田遺跡は、弥生時代前期から古墳時代前期にかけての集落群の遺跡で、発見された弥生土器は、現在岡山市埋蔵文化センターに収蔵されているそうです。
 昭和50年代前半、まだこの辺りは発掘中で青いシートで覆われていました。 間近に行ってみてずっとずっと遠い祖先の人と自分が繋がっていると感激したものです。

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8、今谷橋 (いまだにばし)

いまだにばし  以前は操山の東方(正式には笠井山)を山越えして関と海吉を結ぶ橋として重要な橋だったのですが、
昨今は東の神下橋に続く山道ができて、神下橋の方が幅も広いため、そちらの方へ流れが変わってきました。 


 ゴロゴロ大師・西大寺鉄道について
  兼基の南の笠井山に続く山道を進むと、集落のはずれにゴロゴロ大師があります。
 今は地元の人達がお参りしたり、操山ハイキングの人達が立ち寄ったりとわずかな人が訪れるだけですが、かつて会陽(えよう)で有名な西大寺から後楽園まで西大寺鉄道が走っていた頃は、多くの参拝客で賑わっていたそうです。

 西大寺鉄道とは、明治44年に西大寺から長岡まで、大正4年に後楽園まで全線開通されてから、昭和37年国鉄赤穂線の開通に伴い廃線となるまで、親しまれた鉄道路線です。西大寺駅は現在の西大寺バスターミナルにあり、後楽園駅は後楽園から歩いて10分ほど東にあったそうです。芥子山(けしごやま)の南から西を回って、山陽本線東岡山駅近くから百間川に沿った形で西に進み、岡山市街に走っていました。地元民には軽便(岡山弁で「けえべん」)と呼ばれ親しまれました。
関(せき)にあった「大師駅」からお参りの列が続いたのでしょう。
(※1 長岡は、東岡山駅南周辺。)
(※2 関は、兼基の北、旧山陽道の北の地域。)


9、神下橋 (こうじたばし)

こうじたばし  神下はどうしてそんな地名かなと地図を見ますと、
川の北の神下側に近くの乙多見・長岡下を合わせて
4ヶ所の神社が、川南の今谷・米田側には3つの神社があります。
このような理由から名づけられた地名かなと憶測します。
ただし、「岡山市の地名」岡山市地名研究会編集 平成元年発行などの文献によりますと、名前の由来は分からないそうです。


遊具広場    神下橋から東を見る
    今谷橋と神下橋の間にある遊具広場。     神下橋から米田橋方面を望む。
   中央に見える山が、備前富士と呼ばれる芥子山
   (けしごやま)。芥子山は標高233m、後楽園の
   借景にもなっています。


10、米田橋 (よねだばし)

よねだばし   海吉方面から川沿いに走って、この米田橋を渡ると
 東岡山駅方面(国道250号線)に近道(抜け道)となる
 ことから、昨今は交通量が増えました。

米田橋から西を見る  米田橋から東を見る
米田橋から西(上流)を望む。     東の風景。
   ここから川は大きく鋭角に曲がって、北から南へ
   流れを変えます。(通称 大曲がり) 

  ※ 現在の米田辺り(中流一覧の地図参照)、 奈良時代に港があったと推定されています。
    当時の港湾施設の一部が昭和54年に見つかったそうです。
    奈良時代、ここから瀬戸内海を通って都に船が通ったと想像するのは、ロマンですね。

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