加藤清正公祠堂のご紹介 − 岡山市富田地区
リストマーク 名称(ヨミ) 加藤清正公祠堂(カトウキヨマサコウイオリドウ)
リストマーク 住所 岡山市富田
− 祠堂(平成18(2006)年2月撮影) −
リストマーク 説明  清正公祠堂は、戦国時代の武将加藤清正ゆかりの祠堂である。
 加藤清正は、日蓮宗を信仰しその保護者であったが、ある時、この地に鹿田庄〔しかたのしょう〕の住民を集めて説法教化を行ったと伝えられている。
 かつて、この祠堂の社地は、一畝(約100平方メートル)あり、そのほか、3ヶ所の社地も近くにあり、これらを芝塚とよんでいたが、現在は、この祠堂が残っているのみである。
 祠堂の敷地内には、五輪塔があり、「おくろ」という厨子を祭っていた。この塔は、相当古く、身分高貴の人のものと伝えられている。
 なお、現在の祠堂は、昭和54(1979)年に建てられたものである。
リストマーク 由来の看板 こちらからご覧ください。
※看板の文字をテキスト化しております。
リストマーク 祠堂に
関する
言い伝え
◆地元の方のお話より
『豊臣秀吉(16世紀後期)の時代、加藤清正が九州に下る途中、この地の富田末政の住居に逗留しました(その当時はすぐ近くまで海だったそうです)。
それを記念し清正公様として、富田出屋敷の人達によって祀られてきました。
現在も毎年7月24日、関係者によりお祭りが行われています。
昔、私が古老に聞いた話では加藤清正の軍師、黒田官兵衛も一緒にこの地に逗留し、富田に黒田姓(現在も多い)が広まったと聞いています。』
※黒田官兵衛とは、キリシタン大名としても有名な黒田孝高のこと。
リストマーク 参考情報 ◆取材こぼれ話
 ・「岡山市神田町」と富田の関係
Q 清正公祠堂の住所は、岡山市富田だが、隣の神田町地区の人もわが町の祠堂と敬っているのは、なぜ?
A 岡山市富田付近は、中世、野田庄の南にできた開拓地で、はじめ、福永新田、ついで、福永村と称したが、享保2(1717)年、富田村に改められた。
 その後、いくつかの変遷をへて、昭和27(1952)年に岡山市に編入され、岡山市富田となり、昭和44(1969)・45(1970)年の住居表示事業により、その一部が神田町1・2丁目となった。つまり、富田と神田町は、もともと1つだったのである。
リストマーク ギャラリー
祠堂の周囲 石碑(右側は、五輪塔)
石碑(正面から) 敷地内にある石仏
祠堂から日赤病院方向をみる 国道2号線神田町交差点
リストマーク 参考文献 『ふるさと富田』 富田八幡宮奉賛会 (1978年)
『岡山市の地名』 岡山市地名研究会 (1989年)
『日本史小辞典』 坂本太郎監修 (1989年)
 祠堂の由来書き  ・  妙勝寺の紹介  ・  このページの一番上に
〔岡山県立図書館メディア工房〕
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