交流のあった力士
他にも八重錦、神風(ともに香川県出身)、三根山(元大関)らと親交があったと思われる。 |
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底なし力 現役兵として3年間軍隊生活をしていたので、退役したとき父から「相撲はもうとれないだろうから(角界へは)行くな」と反対されたそうですが、本人は「大丈夫、大したことはない。」と言って角界へ復帰し、1943(昭和18)年1月場所で再び土俵を踏み、4勝4敗の成績で、幕下に昇進。角界から「底なし力」の異名をとる。 3年の軍隊生活の間、三段目時代までは同じような地位にいた大熊、西村(のちの豊嶋)らは、熊野山が復帰した時点では、すでに関取になっていた。 |
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東京駅でのエピソード 熊ノ山が1943(昭和18)年の召集で東京駅を発つ時、のちに横綱となる東富士が(直前に熊ノ山が招集されたことを知ったのであろう)ザンバラ髪で下駄ばきのまま餞別を渡し、見送ってくれたそうだ。 ○船舶砲兵 船舶砲兵は直接輸送船に乗り込み、船舶に設置の高射砲や機関砲で輸送船を敵の潜水艦や戦闘機などから守ることが任務であった。 当時のニューギニア輸送計画では後方基地をパラオに置き、ウエワク、ハンサへ月2〜3回輸送船で輸送を行っていた。そこから先へは、さらに小型船、小舟艇で沿岸輸送を行っていたが、激戦の中の輸送であり、非常な困難を伴った。 |
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最後の家族との面会(遺族の話から) 熊ノ山が、いよいよ宇品港から戦地へ向かうことが決まったとき、「これが最後になるかもしれない」と感じ、隊には内緒で近くの民家に駆け込み、メモを渡し家族に連絡をお願いしたことがあった(どの隊がいつ出発するかは、軍の機密事項であり、面会は、機密漏えいの原因となるため、憲兵等が厳しく取り締まっていた)。 木村家からは、父・母・妹・甥が宇品の兵舎に行き、途中、憲兵に呼び止められた際にも、何とかその場をうまく立ち回り、面会を果たした。 その場で、どのようなやり取りがあったのか、詳しいことは、今となっては知る由もないが、当時3歳だった甥の話では、「今度帰ってきたときは、”おじちゃんおかえり”といって迎えてくれるじゃろうな」と言われた記憶があるそうだ。 結局、それが、家族に対しての熊ノ山最後の言葉となった。 宇品港 広島県広島市にある港で、日清戦争以降、兵隊を戦地へ送り出す軍用港として使われていた(1932(昭和7)年広島港と改称)。 |
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ウエワク半島における戦闘 総数約18万の兵力が投入され、15万人が帰らぬ人となった。その多くは、制海権、制空権を連合軍に奪われたあと、後方からの食料等の補給が途絶えたことによる栄養失調が原因であった。 ニューギニアの戦いは、1942(昭和17)年3月からの3年余りにわたっての米豪連合軍との戦闘であった。<日本からニューギニアまでの距離、約5千キロ> ○陣中日誌 要約 海上輸送第四大隊第四中隊
第三美津丸戦闘詳報
以上 防衛研究所戦史史料室から提供いただいた資料による ※第三美津丸については以上の陣中日誌しか残されていない。この約半年後、 ウエワクからハンサに向けての輸送途中、敵機の攻撃を受け航行不能となる。 |
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追善相撲 林の熊野神社で追善相撲が行われた翌日、天城高校のグランドで天城地区の草野球チームと力士チームとで野球の試合があった。 結果は力士チームの圧勝で、打てばホームランの連続だったらしい。 そのときの力士チームの投手は兄弟弟子の大熊、捕手は弟弟子の若熊であった。 |
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