碑  銘

 本ページはトップページ「護国山 曹源禅寺」の参考文献「芳躅」の主要部分「備前州上道郡護国山曹源禅寺碑銘」の全文を転記したものです。これは曹源寺の本堂と開山塔の間に位置する石塔に刻印されている漢文を拓本とした上で住職原田老師が読み下した文を、ルビも含めて全てそのまま転記しました。
なお、碑銘は享保十一年(1726)のものであり、「芳躅」は平成十二年十一月五日の曹源寺開創三百年並びに開山絶外和尚三百年遠諱記念として発行されたものであります。

(転記者注)
文中「戌寅」(じゅついん)は「戊寅」(ぼいん)の誤記と推定されます。年を表示した干支(えと)であれば、十二支の戌(いぬ)と寅(とら)の組合わせでなく、十干と十二支の組合せで「戊寅」となるのが正しかろうと推察できます。実際に曹源寺落成の元禄十一年(1698)は「戊寅」の年であります。
 石碑の文字は確かに「戌寅」となっており、これは原文での誤りか石碑刻印時の誤りかのいずれかは判断できません。


20080323-10 20080323-06
- 碑銘の前面全体 - - 碑銘前面刻印部分 - - 碑銘左側面刻印部分 -
20080323-08 20080323-09 20080323-16
- 碑銘背面刻印部分 - - 碑銘右側面刻印部分 - - 「元禄戌寅」刻印部分 -


山陽の地域瀬戸内の海に面し、背は
(ふところ)深き中国系の重なり連なる山を()う。

美田稔り、海の幸豊富にして絹、塩、鉄、等産物の取引で賑わい貿易船の出入頻繁(ひんぱん)人々集まり軒を連ね、振り仰ぐ寺院の(いらか)、実に壮観なり。(まこと)に聞く、物豊かにして広く美しい(くに)なり と。城下は大いに賑わい都会の面目躍如たるもの有り。田地は肥沃にして地味肥え広大にして豊穣、人は(そう)(けい)にして判断正しく、物を管理する器量有

り。治政は寛大にして厳正、良く急所を治む。財政豊かにして、製塩の収益に至って海内
七国の第一等なり。府城の東、相
(へだ)たること十里ばかり、天を摩する堂々たる伽藍は護国山曹源寺と()う、広大な聖地は幽邃(ゆうすい)して(けい)(ぼく)
鬱蒼(うつそう)たり。これは備州(びしゅう)播州(ばんしゅう)淡州(たんしゅう)太守(たいしゅ)(しょう)三品(さんぼん)参議(さんぎ)池田(いけだ)(てる)(まさ)公、四世の裔孫(えいそん)従四位下(ぎょう)左近衛権少将松平綱政公の開基(かいき)なり。公は備前藩を世襲(せしゅう)し、その峻厳(しゅんげん)たる政治手腕は広く知られる所である。

昔池田の高祖濃州大垣の主、信輝公、法号は雄嶽宗英大居士、その墳寺は護国院と号し、もと山城州平安城妙心寺の境内に在り、年を経て
(はい)(かい)す。綱政公曾て、(なげ)(おも)われるに、(われ)(えい)(まつ)と為り、なんとしても荒廃せるを見るに忍びんやと。(つい)に移してこの地に置き、再興す。其の佛殿は南面し、曹源寺、三大字の巨額を(かか)げる。即ち綱政公自らの揮毫(きごう)なり。中央に金色の観世音菩薩の像を奉安(ほうあん)し、佛國土を守護せる、多聞(たもん)持國(じこく)増長(じこく)廣目(こうもく)の四天王の像を以って四方を厳飾(ごんしょく)す。佛殿内西北に達磨、百丈(ひゃくじょう)臨済(りんざい)の三祖師像及び妙心開山聖應国師(しょうおうこくし)(しん)(ぱい)を設け、東北に大権(だいごん)修理(しゅり)菩薩(ぼさつ)の像及び護国雄嶽大居士の位牌を設け、北側殿(でん)(はい)普菴(ふあん)禅師の(ぱい)を安んじ佛殿天井には狩野(かの)守則(しゅそく)画く所の、飛龍苑転(ひりゅうえんてん)()(かか)ぐ。其の山門は佛殿の南百歩(ばか)りに在り、護国山の三大字を(へん)す。此れ亦綱政公の親筆なり。閣上(かくじょう)中央には宝冠釈迦牟尼佛(ほうかんしゃかむにぶつ)の像を奉安し、(げつ)(がい)長者(ちょうじゃ)(ぜん)(ざい)童子(どうじ)両腋(りょうわき)に侍す。(さら)に、其の左右に十六羅漢像(らかんぞう)を安んず。佛殿の南西には転輪(てんりん)大蔵(だいぞう)が東面に位置す。収蔵の経本は此の土の新刻(しんこく)なり。其の方丈(ほうじょう)は佛殿の東に在り、中央に行基(ぎょうき)作の観世音(かんぜおん)塑像(そぞう)を安んず。左右に列祖(れつそ)及び檀家(だんけ)(ぱい)(もう)け、方丈の西南に(えい)(しょう)の額を(かかぐ)蓋し(けだし)永昌寺は本、児島郡に在り。今(あらた)めて曹源寺と名ずく。其の曹源寺興復(こうふく)()る所を推察するに、外は永昌を仮り、内は護国を復するなり。其の浴室(よくしつ)は佛殿の東南に位置し、更に(きゃく)殿(でん)書院(しょいん)厨庫(ずく)、か僧寮(そうりょう)等屋根が重なり合って見える様子は馬が勢い良く並び走る如し。其の開山堂は輪蔵の西
に在りて東面す。奥の亨堂(きょうどう)(ぜつ)(がい)和尚の像を安んじ、正面には自ら楷書するところの(ずい)(うん)の額を掲ぐ。其の綱政公の祠堂(しどう)正覚(しょうかく)()い、仏殿後背(こうはい)の山復に在り。其の堂宇(どう)の精巧な構造は雄大(ゆうだい)にして美しく、深い林の中一際(ひときわ)鮮やかなり。堂内には綱政公在世の時親しく(たくみ)(めい)彫造(ちょうぞう)せられし高貴にして温厚なる肖像を安置す。正覚(しょうかく)()の山嶺に三重の塔及び知津(ちしん)(びょう)在り。塔内に()()善逝(ぜんせい)の霊像を設く。(びょう)は蓋し曹源寺十境の一にして、八幡(はちまん)(かん)(しん)の霊を(せい)す。所謂(いわゆる)當山鎮護(ちんご)の主なり。其の雄雄(おお)しい姿は恰も天龍が雲を起すが如く、天を覆う鳳凰(ほうおう)が天空を飛翔(ひしょう)し、此国土を守護し(あい)(たす)くる者の如し。或いは塔より眺望せる景観を暫し気ままに楽しむならば、天風(たもと)を払い、手を差し伸べれば錦江湾の流れを(すく)うが如し。目を遠くに遊ばせるならば或いは長く横たわる島影に(まゆずみ)の如く雲が蛇行して掛かり、又近きを俯瞰(ふかん)せば、或いは肥沃(ひよく)なる田地に稲の苗を植え付けた(あぜ)(あたか)碁石(ごいし)を敷いた如く並ぶ様と互いに蔭映し、浩渺(こうびょう)たる煙海は朝日に(きらめ)き現れ夕霧に霞み包まれる(まこと)雄大なる景観は山陽の一佳境と謂う可きなり。

因って、聖應国師の遠孫 絶外和尚を請じ、以って開山第一祖と為す。綱政公又三方山に囲まれた
(ふところ)深き所を(えら)び、墓石を磨き、姓氏を石に刻み、以って子孫の為に謀る。又厚く荘田()き、以って香火の(ささげもの)に供す。綱政公又(おも)へらく、()の山は城を距ること遠からず。地形殊絶(しゅぜつ)、山水(けい)(そう)なり。只花を()で月を楽しむ輩が(ほしいまま)に遊び、此の清浄なる寺院を以って変じて歌舞(かぶ)(きん)(しゅ)の場と為さんことを恐ると。遂に十條の厳制を()て、(ろく)して後世に(のこ)し、以って仏法の久住(くじゅう)を図る。其の堅固なる志、(あに)親切にして行き届くと謂はざる可けんや。其の造営の締結(ていけつ)の月日は、(けだ)し工事を元禄(じゅつ)(いん)(正月に始め、同年の仲夏(ちゅうげ)(五月二十二日)に落成す。其の規畫(きかく)処置は曇宗森公の尽力による。

享保丙午(一七二六年)の夏に至りて、太守従四位侍従松平継政公、自ら勝入公の肖像を画き、及び松島の雲居膺(うんごよう)和尚(かつ)て公の像に題せる賛語を写す。豪華な表具を以って當山に寄蔵し、永く不朽の宝物と為す。(けだ)し當山の開創以来、未だ公の影像あらず。此の盛挙に至り、一欠典を補完(ほかん)すと謂う可きなり。()(おも)へらく世の廃興成壊(はいこうじょうえ)、又地形の遷り変わり、(おの)ずから()在り、凡そ後世此処に住居し此処に食する者、特に身を提して廃興成壊の眼目を正法(しょうぼう)挙揚(こよう)仏法正脈(ぶっぽうしょうみゃく)護持(ごじ)に置かざれば、即ち開基綱政公の願力を虚しうすると謂うものである。もし(しからず)して(いたず)らに飽食(ほうしょく)(はか)り、(むな)しく時を(ついや)せば、即ち煌煌(こうこう)たる寶刹(ほうさつ)も、只の宿場(しゅくば)旅籠屋(はたごや)と何ぞ異ならんや。(かく)(どし)余来たりて恐れ多くも茲の山を監督せり。因りて曹源寺の興造の顛末(てんまつ)(あきら)かにせり。只久しからずして人の知る無きに至る

ことを恐る。故に官に請うて寺碑に刻み、復其の最後に銘を添え残し置くものなり。

銘に曰く、山陽の大寺。其の壮大にして華麗なること、瑞鳥羽を広げ正に飛び立たんと

するが如し。山紫水明風致実に豊かなり。朝陽の輝きも佳し、夕月の静寂も佳し。聖應の法孫。茲の邦に傑出す。其の号は絶外。
法幢(ほうとう)挙揚(こよう)して(さか)んなり。偉大なるかな少将綱政公。吾が門の堅固なる金城湯池(きんじょうとうち)なり。(つと)(がん)(りん)を転じて茲の寶坊を(はじ)む。(つつし)みて勝縁なることを(おも)う。ャ其れ偶然なりや。凡そお陰を以って、専ら法脈(ほうみゃく)を絶やす事無く幸いに今日に至る。不肖の遠孫。幸いに個人の芳躅(ほうしょく)に接す茲の恩恵を後世に残さん事を図って、

即ち是れに謹んで彫るものなり。


            享保十一年(1726年)

          歳次丙午十月二十九日      

          見住護国山曹源禅寺 

                 稗比丘無外義元謹誌      

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