山陽の地域瀬戸内の海に面し、背は懐深き中国系の重なり連なる山を負う。
美田稔り、海の幸豊富にして絹、塩、鉄、等産物の取引で賑わい貿易船の出入頻繁。人々集まり軒を連ね、振り仰ぐ寺院の甍、実に壮観なり。実に聞く、物豊かにして広く美しい邦なり と。城下は大いに賑わい都会の面目躍如たるもの有り。田地は肥沃にして地味肥え広大にして豊穣、人は聡恵にして判断正しく、物を管理する器量有
り。治政は寛大にして厳正、良く急所を治む。財政豊かにして、製塩の収益に至って海内
七国の第一等なり。府城の東、相距たること十里ばかり、天を摩する堂々たる伽藍は護国山曹源寺と曰う、広大な聖地は幽邃して佳木鬱蒼たり。これは備州、播州、淡州の太守正三品参議池田輝政公、四世の裔孫従四位下行左近衛権少将松平綱政公の開基なり。公は備前藩を世襲し、その峻厳たる政治手腕は広く知られる所である。
昔池田の高祖濃州大垣の主、信輝公、法号は雄嶽宗英大居士、その墳寺は護国院と号し、もと山城州平安城妙心寺の境内に在り、年を経て廃壊す。綱政公曾て、慨き念われるに、吾裔末と為り、なんとしても荒廃せるを見るに忍びんやと。遂に移してこの地に置き、再興す。其の佛殿は南面し、曹源寺、三大字の巨額を掲げる。即ち綱政公自らの揮毫なり。中央に金色の観世音菩薩の像を奉安し、佛國土を守護せる、多聞、持國、増長、廣目の四天王の像を以って四方を厳飾す。佛殿内西北に達磨、百丈、臨済の三祖師像及び妙心開山聖應国師の真牌を設け、東北に大権修理菩薩の像及び護国雄嶽大居士の位牌を設け、北側殿背に普菴禅師の牌を安んじ佛殿天井には狩野守則画く所の、飛龍苑転の図を掲ぐ。其の山門は佛殿の南百歩許りに在り、護国山の三大字を扁す。此れ亦綱政公の親筆なり。閣上中央には宝冠釈迦牟尼佛の像を奉安し、月蓋長者、善財童子が両腋に侍す。更に、其の左右に十六羅漢像を安んず。佛殿の南西には転輪の大蔵が東面に位置す。収蔵の経本は此の土の新刻なり。其の方丈は佛殿の東に在り、中央に行基作の観世音塑像を安んず。左右に列祖及び檀家十牌を設け、方丈の西南に永昌の額を掲。蓋し永昌寺は本、児島郡に在り。今更めて曹源寺と名ずく。其の曹源寺興復の由る所を推察するに、外は永昌を仮り、内は護国を復するなり。其の浴室は佛殿の東南に位置し、更に客殿、書院、厨庫、か僧寮等屋根が重なり合って見える様子は馬が勢い良く並び走る如し。其の開山堂は輪蔵の西に在りて東面す。奥の亨堂に絶外和尚の像を安んじ、正面には自ら楷書するところの瑞雲の額を掲ぐ。其の綱政公の祠堂を正覚と曰い、仏殿後背の山復に在り。其の堂宇の精巧な構造は雄大にして美しく、深い林の中一際鮮やかなり。堂内には綱政公在世の時親しく匠に命じ彫造せられし高貴にして温厚なる肖像を安置す。正覚祠の山嶺に三重の塔及び知津廟在り。塔内に五智善逝の霊像を設く。廟は蓋し曹源寺十境の一にして、八幡菅神の霊を棲す。所謂當山鎮護の主なり。其の雄雄しい姿は恰も天龍が雲を起すが如く、天を覆う鳳凰が天空を飛翔し、此国土を守護し相輔くる者の如し。或いは塔より眺望せる景観を暫し気ままに楽しむならば、天風袂を払い、手を差し伸べれば錦江湾の流れを掬うが如し。目を遠くに遊ばせるならば或いは長く横たわる島影に黛の如く雲が蛇行して掛かり、又近きを俯瞰せば、或いは肥沃なる田地に稲の苗を植え付けた畦が恰も碁石を敷いた如く並ぶ様と互いに蔭映し、浩渺たる煙海は朝日に煌き現れ夕霧に霞み包まれる実に雄大なる景観は山陽の一佳境と謂う可きなり。
因って、聖應国師の遠孫 絶外和尚を請じ、以って開山第一祖と為す。綱政公又三方山に囲まれた懐深き所を択び、墓石を磨き、姓氏を石に刻み、以って子孫の為に謀る。又厚く荘田を剖き、以って香火の奉に供す。綱政公又謂へらく、茲の山は城を距ること遠からず。地形殊絶、山水佳勝なり。只花を愛で月を楽しむ輩が縦に遊び、此の清浄なる寺院を以って変じて歌舞琴酒の場と為さんことを恐ると。遂に十條の厳制を樹て、録して後世に遺し、以って仏法の久住を図る。其の堅固なる志、豈親切にして行き届くと謂はざる可けんや。其の造営の締結の月日は、蓋し工事を元禄戌寅(正月に始め、同年の仲夏(五月二十二日)に落成す。其の規畫処置は曇宗森公の尽力による。
享保丙午(一七二六年)の夏に至りて、太守従四位侍従松平継政公、自ら勝入公の肖像を画き、及び松島の雲居膺和尚嘗て公の像に題せる賛語を写す。豪華な表具を以って當山に寄蔵し、永く不朽の宝物と為す。蓋し當山の開創以来、未だ公の影像あらず。此の盛挙に至り、一欠典を補完すと謂う可きなり。余謂へらく世の廃興成壊、又地形の遷り変わり、自ずから理在り、凡そ後世此処に住居し此処に食する者、特に身を提して廃興成壊の眼目を正法挙揚仏法正脈護持に置かざれば、即ち開基綱政公の願力を虚しうすると謂うものである。もし否して徒らに飽食を図り、空しく時を消せば、即ち煌煌たる寶刹も、只の宿場の旅籠屋と何ぞ異ならんや。隔歳余来たりて恐れ多くも茲の山を監督せり。因りて曹源寺の興造の顛末を彰かにせり。只久しからずして人の知る無きに至る
ことを恐る。故に官に請うて寺碑に刻み、復其の最後に銘を添え残し置くものなり。
銘に曰く、山陽の大寺。其の壮大にして華麗なること、瑞鳥羽を広げ正に飛び立たんと
するが如し。山紫水明風致実に豊かなり。朝陽の輝きも佳し、夕月の静寂も佳し。聖應の法孫。茲の邦に傑出す。其の号は絶外。法幢を挙揚して隆んなり。偉大なるかな少将綱政公。吾が門の堅固なる金城湯池なり。夙に願輪を転じて茲の寶坊を創む。欽みて勝縁なることを惟う。ャ其れ偶然なりや。凡そお陰を以って、専ら法脈を絶やす事無く幸いに今日に至る。不肖の遠孫。幸いに個人の芳躅に接す茲の恩恵を後世に残さん事を図って、
即ち是れに謹んで彫るものなり。
享保十一年(1726年)
歳次丙午十月二十九日
見住護国山曹源禅寺
稗比丘無外義元謹誌
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