トップページ 上流一覧   中流一覧     下流一覧

上流 -川の始まりから百間川橋までー


1、旭川からの分岐

 始まりのナゾ?
  百間川の始まりは、地図によって表記が異なるので、どこから始まるのかはっきり分かりません。
 そこでインターネットの航空写真を見ると、なんとなく見えてきます。  
 旭川からの分岐は、今在家(いまざいけ)の旭東浄水場のすぐ北の消防署の奥の園地にあります。
 園地では、地域の人達が大勢憩い、それぞれに楽しんでいました。


 現在の始まり

  取水口
  ① 旭川からの取水口 先ず丸い池に入ります。

 変形池
  ② 奥の取水口から手前の水門を経て

  川の入り口
   ③ この出口から

 川の始まり
  ④ 川の始まりです! (川は手前から右奥へ)

蛍の里看板  この高島・旭竜地域は、岡山市から指定を受けている「ホタルの里」で、地域住民の保護活動も盛んです。
旭東浄水場の入り口に立て看板があります。 


 水を引き込んだ旭川は本流ではない?!

ところが、この川の元をたどって調べてみると取水口は旭川の本流から引いたものではないのです。

 
 取水口のある川を挟んで、今在家の対岸の地域を中原といいます。中原の北の方にある旭川荘奥の土手の突き当たりに水門があり、旭川本流から水を取り入れて川が新しく生まれます。これを川1とします。
 もう一つ、その土手の手前に旭川からサイホンを利用して水を汲み入れた川があります。この川を川2とします。川2は昭和26年に作られたサイホンが古くなったので、平成7年~9年に造り替えられたサイホンからできた新しい川なのです。
 しかし、古いサイホンの時作られた川も残っていて、これを川3とします。
 川1と川2は並行して流れ、途中から一つになります。そして何本にも分岐して祇園地域の農地を潤します。その一つがまた川3と合流して百間川の取水口に繋がる川となります。
 このように実に複雑な川なのですが、この川は百間川に水を引いた途端、役目を終えたように旭川本流に合流するのです。

取水の川 

 実はこの川は?
  古い文献を調べていると、次のようなことが分かってきました。(文献:「百間川の歴史」昭和53年1月 岡山河川工事事務所 「百間川改修史」建設省岡山河川工事事務所など)
 上記の中原の水門付近は、ちょうど旭川が大きく蛇行した直後に位置し、江戸時代以前よりここで旭川は分岐し、また本流へ戻っていました。つまり、この川で分断された中原は大きな中州だったのです。ですから、水門やサイホン方式は川の分岐点を整備したもので、旭川の洪水対策の一環だったわけです。
 そして、現在の「常時水が流れる百間川」として工事をする際(いつ作られたか分かりませんでした。少なくとも平成15年の地図にはありません。)、この川を利用して「新しい百間川」の流れが出来上がりました。取水口の手前に水門を設け、水かさに応じ三重四重に水量調節されながら、百間川は始まっているのです。

 「一の荒手」を求めて
明星堰  では昔の百間川の始まりはどうだったのでしょう。
 この辺りに「一の荒手」といわれる堤があり、百間川が始まっていたらしいのです。
 「一の荒手」が気になります。
 資料を調べ、改めて現地に出かけました。(平成23年6月15日)
 「荒手」とは、一部分の堤防を 周囲の堤防より一段と低くし、増水した時、水が乗り越えられるようにしたものです。
 旭川との分岐の「一の荒手」は、周囲より2mほど低い乗越堤だったようです。

 さて現地には、前述の池の西南に写真のような低堤防がありました。
 堤防というより低いダムのようなものです。増水した水は堤防を乗り越えて落ちていました。(写真では右から左へ流れています)
 コンクリートですがあたかも昔を彷彿とさせるような光景でした。
  (後にこれは「明星堰」と判明)
一の荒手はどこ?  けれどこの水は、前述の旭川の支流と合流して、本流(右手)に流れていくのです。
 では、資料で見た「一の荒手」は?
 昭和52年7月、昭和58年8月から9月、そして平成2年4月から5月に、山陽新聞が百間川の特集をしています。その写真を基に探してみました。
 池のほとりを川沿いに進むと、まるで私達が来るのを予測したように、土手の道は草刈がしてあり(そうでなければ通れない道なのでした)、突き当たった前方下に「荒手」は草や木の間に見え隠れして存在していました。
 古い新聞記事によりますと、コンクリート製の堤(いつごろ作られたか分かりません)の両サイドに、昔の亀甲積みの石堤が残されていたようです。辺りも広々と見晴らしが良く、「荒手」から北の竜ノ口山が見えています。
 20年余りを経て、園地以外は木々も大きくなり茂みへと変わっていったのでしょう。
  

 昭和50年代頃までの百間川(昔の百間川の始まり)
始まりの地図   山陽新聞の記事を基に地図を作ってみました。
 記事の文章を基に、私の憶測を交えて想像してみました。
 赤い線が現在の百間川の流れです。常に川は流れています。
 以前の百間川は、洪水時の放水路として作られていたので、通常時は緑斜線部は大湿原、「二の荒手」からは〝空河″でした。
 そして、水が溢れた後に溜まってできた池が中島や現在の原尾島北辺りに遊水池としてあったらしいのです。
 増水時、緑の「一の荒手」を乗り越えた水が、緑斜線部を流れて遊水池ができます。ある程度の増水だと、ここまでで耐えられたらしいのです。
 さらに多量の雨の時は、「二の荒手」を超えて南東に流れ込んだということです。

 当然のことながら、昭和50年代の上流の景色は今と非常に違い、ゆったりとした田園風景だったようです。
 現在のスタート地点が旭川と直結する形に変わったのは、昭和58年頃と思われます。


2、中島竹田橋(なかしまたけだはし)


なかしまたけだはし 
  この辺りに「二の荒手」がありました。

百間川看板
  百間川の概要の立て看板があります。
  (写真をクリックすると大きくなります。)

 歴史
  トップページと「旭川の分岐」で書いたように、百間川は岡山城下町を守るために作られた洪水時の放水路です。
  江戸時代初期、城下町岡山は大雨の度に氾濫する旭川に苦しめられました。
 数々の藩政改革を行ったり、庶民教育にも力を入れたりして名君と呼ばれた岡山第三代藩主の池田光政(いけだみつまさ)は、これを何とかしなければならないと考えました。そこで陽明学者で岡山藩頭だった熊沢蕃山(くまざわばんざん)の立案を基に、 岡山藩重臣であった津田永忠(つだながただ)が設計、施工して百間川を作りました。
  1669年から翌年にかけて荒手堤が築かれました。 現在は跡形もありませんが、原尾島橋の辺りに「三の荒手」が あったとも伝えられています。そして、光政の息子の綱政(つなまさ)が藩主になってから、沖新田(清内橋のところで説明)開発を計画するため、1686年(後楽園をつくる前の年)から翌年に百間川を築造します。竹田村(現在の竹田)から海吉村(現在の海吉)に堤防を築き、排水路としても役立つよう整備しました。その後、沖新田の開発が行われ、百間川は児島湾まで貫流します。


3、JR鉄橋


※ 北に新幹線陸橋、南に山陽本線が並行して走っています。

鉄橋と二の荒手  中島竹田橋から望んだ新幹線鉄橋。
 (一番奥の小さな橋です。橋げたは新しい工事中のもの)
 手前に現在の「二の荒手」が見えます。
 今はこの部分だけ残っていて、中を土管が通してあります。
山陽本線鉄橋
  穝川原橋から眺めた山陽本線鉄橋。
  河川敷は奥が野球場、手前がソフトボール場です。
 

 このページのトップへ

4、穝川原橋(さいかわらはし)

 この橋を西に100mも行けば、南北に走る通称「けやき通り」があり、
それを北に走ると、岡北大橋を渡って国道53号線の津島に通じます。東は新幹線側道を進めば、JR高島駅・東岡山駅に抜けられます。
南は国道250号線と繋がります。
従って、一日中通行量の多い橋です。
さいかわらはし

 百間川は、野鳥の宝庫!
  百間川の周辺は、上流から下流まで四季を通じ野鳥が多く生息します。
 年間見られる鳥は、陸地でスズメはもちろんホオジロ、シジュウカラ、カワラヒワ、ムクドリ、キジバト、ゴイサギ、カラスなどで、水辺ではカルガモ、サギ類(アオサギ、オオサギ、チュウサギ、コサギ)、カイツブリ、カワウなどです。
 猛禽類ではトンビ、ミサゴも飛びます。
 2月から3月にかけてウグイスが鳴き始め、初めは下手な鳴き声がだんだん上手になっていきます。春になると ヒバリが賑やかにさえずり、恋の季節を迎えた鳥たちは華やかな飾りをつけ、ホオジロも何とも綺麗なさえずりを聞かせてくれます。
 初夏ともなると、クイナも近くの水田に現れ、カルガモが10羽ばかりのひなを引き連れて泳ぐ様はなんと微笑ましいことでしょう。
 芦原では、セッカがヒッ、ヒッ、ヒッ、チャッ、チャッ、チャッと特徴あるさえずりをあげ、オオヨシキリがギョギョシ、ギョギョシとにぎやかな大声をあげ、操山にホトトギスが加われば、夏に突入です。
 田植え頃の水の張られた水田では、シラサギに混じりアマサギも多く見られます。ケリがけたたましく鳴くのもこの季節です。 
 8月末頃ツバメが去っていくと秋。10月末頃からカモたちが渡来して水辺は賑やかになります。ユリカモメ、オナガガモ、コガモ、ヒドリガモ、マガモなどが多くやってきます。田畑ではセグロセキレイに加え、ハクセキレイも見られ、ヒヨドリがヒーヨヒーヨとうるさく鳴きます。ツグミ、ジョウビタキなどの冬鳥も彩りを添え、メジロも山から下りてきます。 
さい川原橋の中洲   さて、この穝川原橋に話を移します。
 この橋の近辺は野鳥にとって住みやすい環境であるのか、特に野鳥が多く見られるのです。
 素晴らしいのは、コバルト色と橙色の対比が美しいカワセミが見られることです。10年前までは穝川原橋を中心でしたが、最近は中州が小さくなり、原尾島橋、百間川橋辺りの方が多くなったようです。
 また春から夏にかけては、近くのケヤキ並木で巣作りし子育てしているササゴイも出没します。


(穝川原橋から南方を望む。
 遠くに見えるのは、原尾島橋。)
  鳥にとって住みやすいということは植物にとっても同じで、この流域に15年ほど前までは珍しいオニバスが自生していました。
残念ながらいつのまにか絶えてしまったようです。

 オニバスといえば、百間川河口東岸の辺りに、昭和時代、自生では日本一といわれる大群生があったそうです。一時は2000~3000株が川を覆い尽くしていたそうですが、昭和50年代後半から減ってきて、ついに60年過ぎに絶えたのです。そして、いつの頃からか何らかの条件がオニバスに適合したこの穝川原橋辺りに自生し、また絶えてしまったというわけです。

※ オニバスは、スイレン科の1年生の水草で、葉と茎に鋭いトゲがあり、8~9月頃、ほぼ円形の大きな葉は直径20cm~3mとなります。
8~9月頃、4~5cmの紫紅色の四弁の花をつけます。

             飛び石で対岸に行くことができます。→
飛び石

テニスコートほか 河川敷は、テニスコート・多目的広場など充実し、地域住民の憩いの場となっています。
この百間川橋辺りまで続く河川敷を百間川緑地と言います。 



5、原尾島橋(はらおしまはし)

はらおしまはし   原尾島は時代により「はらおしま」と「はらおじま」の
 読み方があります。(現在は「はらおしま」)
 地元民は岡山弁で「はろおじま」と呼びます。 



6、百間川橋(ひゃっけんがわはし)旧国道2号線 現在国道250号線

百間川橋を北から見る  原尾島橋より百間川橋を見た景色。

 かつてこの橋は国道2号線で大阪方面から広島方面を繋ぐ大動脈でした。
 岡山バイパスができてから流れが変わりましたが、今も東岡山・備前方面から岡山市街を結ぶ重要な道であり、交通量は多く、ラッシュアワーともなれば何百メートルもの渋滞が続きます。 

 百間川マラソン
百間川マラソン 沢田橋より百間川橋を見る。

手前の道路はランニングコースで、穝川原橋から下流の海吉橋まで通じていて、自動車は入れません。毎年3月に健康マラソン大会が行われ、大勢の人が参加します。穝川原橋を出発点に小学生から大人までコースが設けられ、第7回(平成23年)の大会では1000人を超えるランナーが参加しました。

このページのトップへ

トップページ 上流一覧 中流一覧 下流一覧