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三舛〔さんじょう〕橋付近
(三舛〔さんじょう〕橋付近)
◆かつて港があった
 天正10(1582)年の豊臣秀吉が備中高松城攻めの際に、交戦すれば犠牲が大きいので水攻めを行った、という有名な故事がある。その記録の中に、延友港周辺で古舟を三十艘買い集め、堤防の一部として使った、という記載がある。そのころから、この地区に港があったことがわかる。
 その後も、重要な交通機関として、舟は使われてきたが、鉄道や道路の普及に伴い、徐々にさびれていった。
 右は、港があった辺りの現在の写真であるが、当時の面影は残っていない。
延友港があった場所
延友港があった場所
*ご参考
  「デジタル岡山大百科」では、高松城水攻めに関係する絵図を公開しております。

◎閲覧方法
 『デジタル岡山大百科』のキーワード検索ページで「高松水攻」と入力
◆足守川の改修
 古くは、天正14(1587)年に改修が行われた記録が残っている。このときの1期工事の記念碑として右写真の毘沙門様がつくられたらしい。そして、工事は、寛永(1620年代)の頃に終了した。改修完成後、延友側にも新田が新しく生まれたとのことである。
(延友村の成立は、近世初頭とみられるが、延友という地名がいつから存在したかは不明である。)
 この工事の際に、出城が造られたが、その敷地に「昔の暮らし」で取り上げる薗崎神社が建立されたとのことである。
 
足守川堤防修築記念碑
足守川堤防修築記念碑
三舛〔さんじょう〕橋
 地区の人が場所を表すときの目印として、今でも古老を中心に使われているのが、三舛橋である。
 その名前の由来は、足守藩(現岡山市)や浅尾藩(現総社市)から馬や牛の背中に米俵をのせてこの橋まで来ると、米蔵が目の前に見えた。運賃は1俵につき、米三舛(一舛は、1.8リットル)の定めであったので、「やれやれ米三舛になった」と喜んで一息入れたことが由来とのことだ。
 なお、右写真は、三舛橋近くにかつてあった井手の港のあとであるが、こちらも田んぼが広がっており、面影はない。
井手の港があった辺り
井手の港があった辺り
引舟橋(通称「一銭橋」)
 県道妹尾御津線が足守川を渡る地点にある現在の「引舟橋」の少し西側には、言い伝えによると天明(18世紀後半)の頃より、渡し舟の番小屋があったという。
 明治のはじめごろ、「引舟の渡し」のあった付近に幅のせまい簡単な橋ができた。この橋は、通行料(1銭とも1銭5厘とも)をとっていたが、福田村への一番の近道で、その他の橋は、例えば、西側では、関戸に橋が架かっていたが、片道1.5キロ以上も離れていたこともあり、一銭橋の通行量は多くにぎわっていたそうだ。
引舟橋
引舟橋
◆延友湛水ポンプ場
 備中高松から今保(延友の東隣の地区)のあたりは、もともと排水が悪く、洪水が発生しやすかった。近年、宅地化の進展とともに、田んぼが減るに連れ、水が逃げるところも減り、少し雨が続くと一帯は、水浸しとなった。そこで、昭和49(1974)年にポンプ場をつくり、ようやく洪水の不安を減らすことができた。
 なお、右写真が延友湛水ポンプ場であるが、左側が従来からのポンプ場で、右側にある小さい建物のほうが、今後稼働する新しいものである。
延友湛水ポンプ場
延友湛水ポンプ場
※参考文献
 『吉備町誌』 吉備町史編纂委員会 (1973年)
 『ふるさと延友の歩み』 難波 民次 (1987年)
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