リストマーク 地域のご紹介〔岡山市延友地区(昔の暮らし)〕
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現在の妙見堂
(現在の妙見堂)
◆年中行事
 年中行事の主なものは、次のとおりである。
虫払い  田植えがすんで8月になると、村中で虫払いの行事が行われた。これは、笹の先に紙でつくった御幣をつけ、農家が田の虫払いを行い、豊作を願ったものである。
 明治末頃には、行われなくなった。
いのこで使う槌
いのこで使う槌
いの子  子どもたちがわらでつくった槌で地面をたたきながら、大声で「今夜の亥の子祝わん者は鬼産め蛇産め」と村中を祝ってまわり、豊作を願ったものである。
 この行事も昭和に入ると、ほとんど行われなくなった。
 右写真は、住民の方が記憶を頼りに作った「いのこ」であるが、実際は、わらを束ねて先をねじっただけの簡素なものが主に使われていたらしい。
七日祈祷  7月7日に部落中でおにぎりを作って、食べていた行事。これは、田植えが終わり、過酷ない草刈りがはじまる間に、コミュニケーションを深めるために行われていた。
 戦時中に米の不足により、中断されたが、戦死者が増えたため、1年で復活した。
 なお、戦後、より人の集まりやすい5月5日に変更になり、現在も続いている。
 ちなみに、正月に行われる行事は、他の地域とほぼ同じで、正月の雑煮は3日まで、7日は、七草かゆ、11日は、八重穂(「やえほ」と読み、農家の仕事始めとして、苗代を耕し、神に豊作を祈る行事であった)を行った。14日は、トンド祭で神棚のお七五三(しめ)を1カ所に集め焼く行事を行った。
信仰:薗崎神社
 地域の氏神は、境目川の西側にある「薗崎(おんざき)神社」(いくさの神といわれる)である。
 土手から短い階段を降りると、両側に石灯籠があり、さらに薗崎神社の懸額のある鳥居をすぎ、松並木の参道を進むと花崗岩作りの唐獅子がある。さらに進むと太鼓橋を渡れば随神門があり、その向こう、右手には、鐘楼がある。境内に入ると正面が本殿で、拝殿、幣殿にわかれている。
 ちなみに、本堂の修復の際に発見された棟札によれば、享保(1716-1736)時代の創建と推定される。
 つまり、延友地区の開拓が寛永(1624-1644)の頃であるから、その後、およそ100年後に建てられたことになる。
薗崎神社入口付近
薗崎神社入口付近
■ 絵馬
 薗崎神社には、絵馬が奉納されており、主なものとして
 ・財ヶ嶽七本槍の奮戦の絵
 ・牛若丸と弁慶
 ・石橋絵馬
のようなものがある。
 絵馬に関しては、延友地区には、特徴がある。それは、左の絵馬の枠に嘉永元(1848)年に「本村子供中」により奉納されたと書かれているように、その奉納が村の子供たちによって行われていたことである。
絵馬:牛若丸と僧弁慶の図
絵馬:牛若丸と僧弁慶の図
※「絵馬」とは
 神に願いをかけたり感謝する意味で、額を奉納するもの。生きた馬を寄進するのがはじまりであるが、飼育が大変なので、代用として、木馬や土馬を奉納していた。それが、さらに絵になったのである。
■ 薗崎神社の尊像
 薗崎神社には、尊像が2つある。ひとつは、現在、まつられているものであるが、もうひとつは、建物の中に保管されていて、見つかった当初、いわれがわからなかったものである。なお、尊像の名前は、薗崎大明神(おんざきだいみょうじん)である。

※ここでは、尊像と書いたが、その姿からこれは、ご神体というべきかもしれない。しかし、地元では、ご本尊という言い方もされることに配慮したものである、なお、これは、神仏混淆のなごりとのことだ。

薗崎神社現在の尊像
薗崎神社現在の尊像
※昔の尊像についての伝承
 昔の尊像について地元の方が調べたところ、次のようないわれがあるそうだ。
 寛永年間(1624〜1644)の頃 足守川の堤防改修工事の時、境目川との合流地点に工事のための出城があった。堤防工事が終わった後 境目川の上流に大洪水があり、川を三体の尊像が、流れてきた。その像を村人が拾いあげて、出城の跡地に祠を建てておまつりしていた。その後 (裏に記されている文字によれば、貞享4(1687)年頃)、備中真金の吉備津神社より薗崎大明神を観請し、延友村の氏神様として、信仰されるようになった。なお、当初は、薗崎宮といわれていたが、戦時中に、国からの指示によって「薗崎神社」に改名されたとのことである。
薗崎神社昔の尊像
薗崎神社昔の尊像
教育
 延友地区には、本村に、学問の神である菅原道真を祀った天神様がある。しかし、村内で子弟の教育の場とされていたのは、北村にある北辰妙見大菩薩を祭神とする妙見堂で、慶応時代から明治の始めまで使われていた。
 明治6(1873)年学校制度が公布されると、子どもたちは、井手小学の名に改められた妙見堂で引き続き学んだ。今でもその名残で妙見堂に行く道を学校道という人もいる。
 その後、明治10(1873)年に学区の合併により、庭瀬小学に通うようになった。
(庭瀬小学校は、その後、撫川小学校と統合し、吉備小学校となった。)
本村にある天神様
本村にある天神様
※方言のご紹介
 延友地区で使われていた方言の一つに「ずどほんぼっこー」というのがある。「ぼっけー」というのは、岡山の方言としては、ポピュラーな、何かを強調するときに頭に付ける言葉である。その前に「ずどほん」を追加することにより、より一層の強調表現としていたようだ。
 用例:「ずどほんぼっこーでっかかった」 → 「非常に大きかった」
※地元の方の思い出話
 延友地区は、明治時代から、青年層が家の生活を助けるための仕送りをするなどを目的として、海外移住を志すことが多かった。その際の護身用にと考えたのか、当時、周囲で盛んであった柔道についても他地区より、さらに熱が入っていた(当時、50戸くらいの村から10数名の者がアメリカやカナダに渡ったそうだ。)。
 スポーツ熱心な風土は、その後も続き、公民館の倉庫には、つい最近まで、他の地域ではあまり見られない「円盤投げの円盤」、「砲丸投げの砲丸」、さらには、「スパイク」等、かなり昔に購入されたものが残っていた。
旧延友地区公民館
旧延友地区公民館
※参考文献
 『吉備町誌』 吉備町史編纂委員会 (1973年)
 『ふるさと延友の歩み』 難波 民次 (1987年)
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