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** 昔の暮らし ** | |||||||||
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(現在の妙見堂) | |||||||||
◆年中行事 | |||||||||
年中行事の主なものは、次のとおりである。
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◆信仰:薗崎神社 | |||||||||
地域の氏神は、境目川の西側にある「薗崎(おんざき)神社」(いくさの神といわれる)である。 土手から短い階段を降りると、両側に石灯籠があり、さらに薗崎神社の懸額のある鳥居をすぎ、松並木の参道を進むと花崗岩作りの唐獅子がある。さらに進むと太鼓橋を渡れば随神門があり、その向こう、右手には、鐘楼がある。境内に入ると正面が本殿で、拝殿、幣殿にわかれている。 ちなみに、本堂の修復の際に発見された棟札によれば、享保(1716-1736)時代の創建と推定される。 つまり、延友地区の開拓が寛永(1624-1644)の頃であるから、その後、およそ100年後に建てられたことになる。 |
![]() 薗崎神社入口付近 |
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■ 絵馬 | |||||||||
薗崎神社には、絵馬が奉納されており、主なものとして ・財ヶ嶽七本槍の奮戦の絵 ・牛若丸と弁慶 ・石橋絵馬 のようなものがある。 絵馬に関しては、延友地区には、特徴がある。それは、左の絵馬の枠に嘉永元(1848)年に「本村子供中」により奉納されたと書かれているように、その奉納が村の子供たちによって行われていたことである。 |
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![]() 絵馬:牛若丸と僧弁慶の図 |
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※「絵馬」とは | |||||||||
神に願いをかけたり感謝する意味で、額を奉納するもの。生きた馬を寄進するのがはじまりであるが、飼育が大変なので、代用として、木馬や土馬を奉納していた。それが、さらに絵になったのである。 | |||||||||
■ 薗崎神社の尊像 | |||||||||
薗崎神社には、尊像が2つある。ひとつは、現在、まつられているものであるが、もうひとつは、建物の中に保管されていて、見つかった当初、いわれがわからなかったものである。なお、尊像の名前は、薗崎大明神(おんざきだいみょうじん)である。 ※ここでは、尊像と書いたが、その姿からこれは、ご神体というべきかもしれない。しかし、地元では、ご本尊という言い方もされることに配慮したものである、なお、これは、神仏混淆のなごりとのことだ。 |
![]() 薗崎神社現在の尊像 |
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※昔の尊像についての伝承 | |||||||||
昔の尊像について地元の方が調べたところ、次のようないわれがあるそうだ。 寛永年間(1624〜1644)の頃 足守川の堤防改修工事の時、境目川との合流地点に工事のための出城があった。堤防工事が終わった後 境目川の上流に大洪水があり、川を三体の尊像が、流れてきた。その像を村人が拾いあげて、出城の跡地に祠を建てておまつりしていた。その後 (裏に記されている文字によれば、貞享4(1687)年頃)、備中真金の吉備津神社より薗崎大明神を観請し、延友村の氏神様として、信仰されるようになった。なお、当初は、薗崎宮といわれていたが、戦時中に、国からの指示によって「薗崎神社」に改名されたとのことである。 |
![]() 薗崎神社昔の尊像 |
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◆教育 | |||||||||
延友地区には、本村に、学問の神である菅原道真を祀った天神様がある。しかし、村内で子弟の教育の場とされていたのは、北村にある北辰妙見大菩薩を祭神とする妙見堂で、慶応時代から明治の始めまで使われていた。 明治6(1873)年学校制度が公布されると、子どもたちは、井手小学の名に改められた妙見堂で引き続き学んだ。今でもその名残で妙見堂に行く道を学校道という人もいる。 その後、明治10(1873)年に学区の合併により、庭瀬小学に通うようになった。 (庭瀬小学校は、その後、撫川小学校と統合し、吉備小学校となった。) |
![]() 本村にある天神様 |
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※方言のご紹介 | |||||||||
延友地区で使われていた方言の一つに「ずどほんぼっこー」というのがある。「ぼっけー」というのは、岡山の方言としては、ポピュラーな、何かを強調するときに頭に付ける言葉である。その前に「ずどほん」を追加することにより、より一層の強調表現としていたようだ。 用例:「ずどほんぼっこーでっかかった」 → 「非常に大きかった」 |
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※地元の方の思い出話 | |||||||||
延友地区は、明治時代から、青年層が家の生活を助けるための仕送りをするなどを目的として、海外移住を志すことが多かった。その際の護身用にと考えたのか、当時、周囲で盛んであった柔道についても他地区より、さらに熱が入っていた(当時、50戸くらいの村から10数名の者がアメリカやカナダに渡ったそうだ。)。 スポーツ熱心な風土は、その後も続き、公民館の倉庫には、つい最近まで、他の地域ではあまり見られない「円盤投げの円盤」、「砲丸投げの砲丸」、さらには、「スパイク」等、かなり昔に購入されたものが残っていた。 |
![]() 旧延友地区公民館 |
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※参考文献 『吉備町誌』 吉備町史編纂委員会 (1973年) 『ふるさと延友の歩み』 難波 民次 (1987年) |
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