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** 延友地区の歴史 **
「岡山県三国地図」の一部
(岡山県立図書館所蔵「岡山県三国地図」〔明治18年〕より)
※本図は、明治時代の延友地区周辺の地図を抜粋したものである。
*ご参考
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◆所属市町村の変遷

江戸時代  近世初頭の足守川の左岸一帯の開発により誕生したと思われる。寛永
年間(1624年〜1644年)に作られた絵図では、石高は、720石余り、庭瀬
藩戸川氏領と記されている。
明治22(1889)年  市町村制施行にあわせ、、「延友村」は、「庭瀬」、「平野」、「西花尻」、
 「東花尻」、「川入」の5ヶ村と合併して、「庭瀬村」となった。
明治34(1901)年  「庭瀬村」が町制をしき、「吉備郡庭瀬町」になった。
昭和12(1937)年  「都窪郡撫川町」と合併し、「都窪郡吉備町」になった。
昭和46(1971)年  「岡山市」と合併し、岡山市の吉備地区として、現在に至っている。

※岡山市と合併直前(昭和45(1970)年の吉備町は、面積10.81平方キロのほぼ長方形の行政区域を持つ、人口10,957人の町であり、このときの延友地区の人口は、540人であった。

◆交通
 明治時代はじめは、江戸時代から引き続き、児島湾に近い(当時は、現在のように干拓が進んでいなかった)こともあり、河川を利用した交通が盛んであった。その後、鉄道や道路の整備がすすみ、現在では河川交通の面影をわずかにとどめるだけである。
 鉄道
 明治24(1892)年に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)の庭瀬駅が開業した。 なお、山陽鉄道は、明治39(1907)年に国有化された。
 延友地区から庭瀬駅までは、歩いて15分程度であり、岡山や倉敷へ行くための交通手段として、開業当初から利用は多かったとのことだ。
 当時は、貨物輸送(現在は旅客のみ)も行っており、輸送(送り出し)品目としては、花むしろ、畳表、麦、い草、米、活鮮魚、到着(積み卸し)品目としては、綿糸、木材類、肥料、綿織物等があった。
JR庭瀬駅
JR庭瀬駅
 道路
 主要道路は、地区の北側を通る県道岡山倉敷線(旧国道2号線)で、岡山・倉敷を結ぶ主要幹線の一つである。
 この道路が整備されたのは、昭和6(1931)年から同10(1935)年にかけて、御大典記念事業で、当時の内務省大阪土木出張所の直轄工事として、岡山から倉敷まで14.7kmが着工されたものである。幅員は、9mであった。
 これに伴いバス路線も昭和12(1937)年に置かれ(はじめ、省営、のち国鉄を経てJR中国バスが引き継いだが、平成15(2003)年に他のバス会社に路線を譲渡した。)、地域の人の重要な足となっていた。
 なお、そのほかの道路については、川での輸送が中心であったため、整備が遅れていたが、昭和30年代から徐々に充実していった。 
バス停(県道岡山倉敷線)
バス停(県道岡山倉敷線)
◆産業
 延友では、農産物として、収入の良かった「い草(畳表の原料となる)」をはじめ、米・麦を生産していた。品質が高いので有名であった「い草」も、昭和30年代には、国内外の他の産地に押されたり、また、厳しい重労働などにより衰退していき、ほとんどが米づくりに変わっていった。また、昭和45(1970)年の統計では、養鶏農家数が32(小規模なものが多かった)とあり、鶏が飼われていたことが分かる。

猛暑の中での「い草」収穫作業
午前4時  刈り入れ開始
明け方  前日染土を付けた「い草」を干していく
昼頃  干した「い草」を裏返す
午後3時  干した「い草」を束ね納屋にしまう
夕方  本日刈った「い草」に染土を付ける

 今は、ほとんど無くなってしまったが、かつては、足守川に児島湾から直接海水が流れ込むこともあり、漁業が盛んであった。ウナギやフナも良く捕れたが、特にシジミが有名で、地元の人の話では、西大寺(岡山市西大寺)の永安橋付近と延友のシジミは、おいしいので有名であったとのことである。
 近年は、県道岡山倉敷線沿いを中心に工場も増えている。
延友地区におけるい草の栽培状況
農家数 栽培面積
昭和35(1960) 51 1,382
昭和40(1965) 47 1,515
昭和45(1970) 39 960
※面積単位:畝(約100平方m)


い草用代かき馬鍬
い草用代かき馬鍬(まんが)
■ 児島湖の締切
 児島湖が淡水化されるまでは、干拓で海岸線は遠のいていたものの、延友地区まで塩水が逆流し、農業に悪影響を与えることが多かった。
 特に日照りが続くと、田んぼがカラカラになり、地面が割れ、塩が出てきて、被害を被っていた。
 昭和34年児島湖の締切が完成し、児島湖が淡水化されるとそのおそれは、無くなったが、同時に足守川にいたシジミ、ハゼ、ヒラメ、エビ等の様々な生物も減ってしまった。
児島湾締切堤防
児島湾締切堤防
◆生活基盤
 電気については、大正10(1921)年に延友全村に電灯がついた。
 水道については、地区の懸案であったが、昭和30(1965)年にようやく敷設された。水道敷設が地区の懸案であったとは、川がすぐそばを流れ、水が豊富である同地区を考えると意外な感じもするが、当時は、海水が直接足守川に流れ込み、井戸を掘っても良い水が出なかったためである(児島湾の干拓もまだまだ進んでいなかった)。また、延友は、近世に開発された地区であり、上流で使われた水の残りを利用していたため、降雨量が少ない場合などに水が不足することが多かった。そのため、水道以前は、川の水をこして飲んでいたとのことである。
電灯〔イメージ〕
電灯〔イメージ画像〕
※地元の方の思い出話(電気編)
 ほとんどの家庭では、電気料金は、電灯の数にもとづき定額を払っていた。そして、定額制で電気を契約している家では、夜には、通電し、明かりがともったが、昼には、消えていた(一日中点灯していた時期もあった)。メーターをつけ、使用量に応じて電気料金を払っている家は、多数の電化製品を使っている、ごくわずかの金持ちに過ぎなかった。
 また、定額で契約している者の中には、電気を分岐して、契約数以上の電灯をともした家もあったが、電力会社もそのあたりを心得ていて、各家庭の見回りを行い、発見した場合は、罰金を請求していたとのことだ。
※地元の方の思い出話(水道編)
 昔 延友地区の飲料水については、川の水をこして使うほか、井戸からくみ上げた水を「ろか設備(地区の共同利用が二ヶ所〔本村と北村に1カ所ずつ〈その他にもあったかもしれない〉、個人利用が一ヶ所、いずれも井戸のそばにあった〕)」でろかしたものも利用していた。その後、公共の水道が敷設されると数年のうちにこれらの「ろか設備」は壊され、また、井戸も埋められてしまったとのことだ。 ろ過装置があった辺り(本村)
ろ過装置があった辺り(本村)
※参考文献
 『吉備町誌』 吉備町史編纂委員会 (1973年)
 『岡山県統計年報昭和46年』 岡山県 (1973年)
 『ふるさと延友の歩み』 難波 民次 (1987年)
 『日本歴史地名大系 岡山県の地名』 平凡社 (1988年)
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