天正10年(1582)3月羽柴秀吉が播磨、但馬、因幡三国の兵を率いて姫路を発した。4月4日に秀吉は岡山に着陣し、宇喜多勢と合流する。5月になって、秀吉は梅雨を利用して、毛利方の清水宗治の守る高松城を水攻めにする。清水宗治をたすけるために毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が出陣してくる。6月2日に本能寺の変が起こり、6月4日に清水宗治の切腹によって毛利氏と秀吉の講和が成立する。1番目の図(KM/391/1)は、古川古松軒(フルカワコショウケン)の自筆である。寛政3年(1791)3月に描かれたもので、「黄薇山人古川辰図」とある。朱印と黄印により、羽柴勢と毛利勢を色分けしている。2番目の図(KM/391/2)は、朱色の四画印と丸印で両陣営を分けている。3番目の図(KM/391/3)と4番目の図(KM/391/4)は、無駄なものを省いたもので絵画的要素に乏しい。5番目の図(KM/391/8)は、1番目の図に近い構成になっているが、両陣営を色分けするようなことはしていない。 「矢指村 長久保伝五兵衛所持」と左隅に記されているが,矢指村は現在の茨城県北茨城市中郷町小野矢指だと考えられる。長久保伝五兵衛は長久保赤水の子孫で幕末の人である。この図は長久保赤水が描いたものの写しだと考えられる(*1)。(*1)茨城県高萩市歴史民俗資料館の御教示による。
作成日:寛政3年
続きを閉じる