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高瀬舟と大名行列 − 1 |
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題名 | 高瀬舟と大名行列 1 |
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文章 | 田仲満雄(新見市文化財保護審議会副会長) |
一、高瀬舟の歴史 川船としての高瀬舟は江戸時代には、高梁川・旭川・吉井川それぞれの本流などで運行していた。江戸時代の初め慶長16(1611)年に京の商人角倉了以が吉井川の舟を京都の「高瀬川」と名付けた運河に浮かべて荷を運び、この舟を「高瀬舟」と呼んだのはあまりにも有名な話であるが、高瀬舟は、一体いつ頃から使用されたのであろうか。 哲多郡(古代律令制下におけるもの:概ね高梁川の西側)・阿賀郡(同じく:概ね高梁川の東側)の北部は、鉄の一大産地であった。「町史の窓36 哲多郡の庸」(『広報てった 2000.9』今津勝紀 哲多町役場発行)より引用すると、『類聚国史』に納められている『日本後紀』逸文の弘仁7(816)年8月癸丑条に「勅すらく。玄賓法師、備中国哲多郡に住まう。苦行日久しく、利益称すべし。宜しく法師が存生の時間、彼の郡の庸は、米を停めて鉄を進れ。以て民費を省かん」という記事が見える。嵯峨天皇から玄賓に下された詔は空海の『遍照発揮性霊集』にも納められている。玄賓法師は謎の多い人物だが、伝承によると元来は興福寺の僧であったが伯耆や備中に隠棲したとされる人である。『日本後紀』の逸文と考えられる『日本紀略』の弘仁9(818)年6月己巳条に「伝燈大法師玄賓卒す。春秋八十有余」とある。 弘仁7年の記事では、哲多郡の庸(布で納める税、布に替えて米を納めることが多かった)が法師の存世中、米から鉄に変更されていたことがわかる。これにより、哲多郡北部(阿賀郡北部を含めて)の鉄生産が盛んであったことを知ることができる。 この鉄が吉備の国の中心へ大量に運ばれていた。人が担いであるいは馬の背に乗せて運搬していたのであろう。その見返りに運んできたものは「塩」であった。吉井川の中流域に存在する「月ノ輪古墳」からは5世紀の舟のハニワが出土している。また、新見市哲西町の西江遺跡では、瀬戸内海沿岸の6世紀の製塩用の土器が大量に出土している。製塩土器を運搬用具として利用したものである。これらは人や馬が運んだとも考えられるが、一方、舟で運んだとも考えられる。外洋へ漕ぎ出す舟を造る技術を川舟に利用することは当時としても容易なことであったであろう。そうした意味では、川船としての高瀬舟の原型は5世紀ごろにさかのぼることができるかもしれない。 真庭市落合町の「下市瀬遺跡」から、高瀬舟とほぼ同型の木製模型舟が何艘も出土している。その内の1艘の舳先には横に穴をあけており、他の1艘には胴張りが2カ所・帆柱を立てる穴が1カ所ある。十数艘の模型舟と一緒に皇朝十二銭(奈良から平安時代に発行された12種の銭)の1つ「隆平永寶」(796年発行、20年後に使用禁止となった銭)が出土している。さらに、それらの周辺からは、祭事に使用する齋串や呪い人形などが出土している。いずれも舟の運航の安全を祈ったものであろう。
『日本三代実録』(901成立)の天慶8(884)年9月16日癸酉の条に「令近江丹波両国 各造高瀬舟三艘」とあって、高瀬舟の利用・名称の存在がわかる。 30年ほど後、承平年間(935頃)に成立した『和名類聚抄』の「舟部」に「■」として高瀬舟が記載されている。その特徴は、「艇小而深 高背舩之義」としている。(※■は、左が「舟」、右が「共」である。) 高梁川の支流成羽川では、徳治2(1307)年に『笠神文字岩』の銘文が刻まれている。書き出しは、「笠神船路通事」とあり、笠神の龍頭上下の瀬十余ヵ所の石切を行って船路を確保していたことから、成羽川でも徳治2年よりも前から舟運が行われていたことがわかる。 新見庄の文書「百合文書」の中には「船給・脛給」が見られ、これらは船頭に与えられた給金と考えられる。 寛永(1624〜1644)・正保(1644〜1648)年間に松山城主水谷家が正田村川の瀬まで川普請を行い、寛文(1661〜1673)年間には正田村より新見村下市場まで通船している。 慶安元(1648)年には、長さ三間半(6メートル30センチ)・巾1メートル20センチの船を造っている。 元禄11(1698)年に関長治公が新見藩主として新見村に御引越になられる(写真に元禄八年とあるのは誤記)。
高瀬舟は、突然出てくるものではなく、長い歴史を持っていることが理解していただけたかと思う。 |
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※岡山県埋蔵文化財発掘調査報告は、岡山県古代吉備文化財センターから発行されています。 |
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参考文献 | |
『月の輪古墳』共同研究「月の輪古墳」編集部(代表 近藤義郎)編著 1960.11.23刊 『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告20「西江遺跡」』 岡山県教育委員会 1977.6刊 『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告3「下市瀬遺跡」』 岡山県教育委員会 1974.3刊 『岡山大学教育学部研究収録第18号 "14世紀の成羽川水運開発記念碑「笠神文字岩」について"』藤澤 晋著, 岡山大学教育学部, 1964刊 『歴史地理 第57巻 第1号 「徳川時代河川行政の考察」』松尾惣太郎著, 日本歴史地理学会,1931.1刊 |
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