![]() |
高瀬舟と大名行列 − 5 |
![]() |
題名 | 高瀬舟と大名行列 5 |
![]() |
文章 | 田仲満雄(新見市文化財保護審議会副会長) |
四、船路の維持と川掘 高梁川の船路の開発は既に述べた通りだが、その船路はどのように維持されてきたのだろうか。 高梁川の井高より上流は、瀬や急流の所が多く、船路の維持は大変だったようである。井上家文書によると、通常、年2回春と秋に「川掘」が行われていた。新見から井高までの川掘には、松山分(川之瀬の近藤扱い)と新見分(加登屋改め伏見屋・後に井上扱)双方から人夫が出て実施された。松山分2・新見分1の割合で、通常の時は松山分300人、新見分150人が出夫した。新見分150人は、船頭・鉄問屋がそれぞれ30人・120人を分担していた。 なお、船路は、大水がでれば川の様子が変わってしまい、臨時に川掘も行われていた。松山500人・新見250人とふくれ上がることもある。特に、被害の大きい瀬を中心に人夫が割り当てられ、復旧に努めていたようである(写真27)。
さらに井上家文書を読み進めていく。川掘の出夫に対して江戸時代には米5合が日当として支払われた。この代金は、新見では藩への運上金の中から下付されていた。運上金は、船1艘に付いくらと藩から出される「定」によって決められており、藩の収入になると同時に船路維持の川掘費に当てられていた。川掘費には、人夫賃やかなほり・木枠用の木材など川掘用具代が含まれていた(写真28)。川掘が度々行われるとプールされた運上金が不足することになり、藩は「定」を改訂して運上金を増額して不足分を補ったりしたのである。 川掘は、高瀬舟の運航を止めて実施された。船路を埋めた石や岩を取り除く時に「かなほり」が威力を発揮するわけである。木枠も痛んだ個所を取り替えたりした。江戸時代の記録では鑿〔のみ〕を使って岩を割っていたそうである。明治になるとダイナマイトも使われた。かなほりや鑿以上の働きをしたことだろう。 明治以後、新見藩はなくなったので、藩からの下付金はない。川掘人夫の日当はどのようにしたのだろう。 明治になっても、藩への運上金と同じように船1艘の運航に対していくらと金額を決めて船持や舟頭から徴収し、川掘の賃金や諸経費に充てた。これを管理したのは、江戸時代の「船差役」であった井上儀平やその子の辰五郎が「高瀬舟元締」(元締という語は記録には出てこない)としてその任にあたった。井上辰五郎は、かつての松山分・新見分の船持を集めて「哲多阿賀廻漕組合」を設立し、その代表として活躍した。やがて、全国的な組織「内國通運會社」が出来るとその分社として「内國通運會社阿哲分社」(明治8(1875)年組織替え)と名称を変更する(「阿哲廻漕組合」という名称は最後まで使われている)が、内容は江戸時代以来の「古格」を維持したものである。この組織は昭和の初めまで続く。明治十年代の後半になると、川之瀬の近藤の名前が出てこなくなり、代わって川之瀬では「郷木商店川之瀬支店」が近藤の任務を引き継いでいることがわかる。
「高梁川瀬数改記」(写真29)には、高梁川の51か所の瀬が書き上げられている。これらの瀬の川掘が年中行事であったわけである。「瀬数改記」には年号が記入されていないが、三日市の船着場は「御船場」であり、哲多郡に属しており、筆跡から井上辰五郎が書いたものと判断される。 江戸時代には新見藩、明治初期になると行政の組織が、「新見縣」→「小田縣」→「倉敷縣」→「岡山縣」と組織替えが実施された。阿哲廻漕組合は、藩からの下付金にかえて、毎年、県に対して川掘工事費交付の申請を行い、交付金を受け取っている。この交付金と船持・舟頭から集めたお金を元にして、川掘の賃金や諸費が支払われていた。 江戸時代の高瀬舟の記録は600点を超えると既に書いたが、明治から昭和初期にかけての記録も数百点以上残されている。 これらの記録類は、高瀬舟の運航に関しては、非常に貴重な史料である。江戸から昭和まで記録が揃っていることは、河川運輸を研究するには欠かせないものといえるだろう。 |
||||||
戻る | 続きへ |
![]() |
参考情報 | この文章は、田仲満雄氏が「備北民報」に平成18(2006)年11月14日付けで寄稿した文章をもとに作成したものである。 |
他のページを読む( はじめに ・ 1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ) このページの一番上に | |
〔岡山県立図書館メディア工房〕 | |
《ご参考》デジタル岡山大百科を使えば、さらに関連情報を調べることができます。 〔 本を探す ・ インターネット上で郷土情報を視聴する ( キーワード 地図 ) ・ レファレンス事例を探す 〕 |