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高瀬舟と大名行列 − はじめに |
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題名 | 高瀬舟と大名行列 はじめに |
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文章 | 田仲満雄(新見市文化財保護審議会副会長) |
1 高瀬舟と大名行列の文章の作成にあたって (1) 井上家文書との出会い 平成18(2006)年1月に、新見市在住の井上隆生氏と知り合った。同氏は、古文書を多数所蔵しており、「史料は私蔵するのでなく、公開して多くの方々に見ていただき、それらをもとに研究して欲しい」という考えを持っていた。 井上家文書の多くは、高梁川での高瀬舟による物資輸送についての記載であり、先人により論文発表もなされている。しかし、確認したところ、従来取り上げられなかった「高瀬舟による大名行列」を示すものも30点近く見つかった。 そこで、井上氏の了解のもと、この資料を新見市をエリアとする地方紙「備北民報」に「高瀬船と大名行列」と題する小文を数回にわたり連載し、大名行列及び高瀬舟に関する史料全般を紹介した。 大名行列に高瀬舟が使われていたということは、従来の常識〈高瀬舟を使うということは、攻撃されたとき逃げ場がない、危険が多すぎる〉では考えられないことだったため、かなりの反響がよせられた。
(2)高瀬舟について 「高瀬舟」による運送がいつ頃、どこで始まったかは現状では定説はない。 しかし、慶長16(1611)年に京の商人角倉了以が岡山県の東部を南に流れる吉井川の舟を京都の「高瀬川」と名付けた運河に浮かべて荷を運び、「高瀬舟」と呼んだのは有名な話である。 なお、高瀬舟の構造は、河川の状況により変化がある。たとえば、瀬があり急流の場合は船巾が狭く、そうでない河川の場合は船巾が広くなっている。
(3)井上家文書の内容 井上家は、宝暦4(1754)年に新見藩より「船指役(船差役)」に任命されて以来、江戸時代を通じ同役として、また、明治から昭和初期までは廻漕組合の代表として活躍した。 文書については、整理中ではあるが、おおむね次のように分類している。 ア 参勤交代などにおける大名行列の高瀬舟による実施並びにその支援 イ 継船制の維持(新見領の船の荷物は、備中松山で松山領の船に積み替える。登りの時も同じく 積み替える) ウ 「番船制」の実施 エ 川掘りによる河川航路の維持管理 オ 新見藩発行の藩札の札座の諸事 カ その他、文化に関する諸物 2 備北民報掲載文の転用及び文章等の一部修正について この文章は、備北民報社(所在地:新見市高尾)の「備北民報」紙に「高瀬船と大名行列」なる文章として平成18年の10月から12月にかけて6回にわたり掲載したものであるが、このたび同社の了解をいただき、岡山県立図書館の「デジタル岡山大百科」に掲載するものである。 なお、デジタル岡山大百科掲載にあたり、字句の訂正や挿入図版の追加や参考文献・井上家文書の分類番号の追加記入を行った。また、文章構成についても一部変更を行っていることをご了承いただきたい。 |
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