リストマーク  高瀬舟と大名行列 − 3
リストマーク 題名 高瀬舟と大名行列 3
リストマーク 文章 田仲満雄(新見市文化財保護審議会副会長)

 高瀬舟を利用した参勤交代の大名行列は、どのような内容だったのだろうか。
「享和五年酉三月御船割帳」を紐解いてみよう。
 
『享和元酉歳
      三月十二日
 御先用船割
 一番
   三名乗船
   駄荷拾三疋分
  〆百拾貮貫目
 二番
   一名乗船
   駄荷
   乗下五疋分
  〆百拾六貫目
 三番
   一名乗船 
   駄荷貮疋分
   乗下一疋分
  〆百八貫目
 四番
   二名乗船
   駄荷三疋分
  〆百弐拾四貫目
 五番
   一名乗船
   駄荷貮疋分
   乗下壱疋分
  〆百八貫目

    三月十三日
 御先一番
   七名乗船
   御□箱一荷(□:読めず)
  〆百貮拾壱貫目半
 貮番
   四名乗船
   御臺所駄荷壱疋分
  〆百三拾貫目
 三番 
   六名乗船
   御臺所荷一駄分
  〆百貮拾六貫目半
 四番
   三名乗船
   竹高三荷
   御長持
   御弓矢
   御提灯箱
  〆百貮拾貫目半
 五番
   四名乗船
   御具足
   合羽竹高貮荷
   御駕
  〆百拾八貫目半
 御召船
   六名乗船   
   御■■(破れ)
   御鑓二
   御井筒
   御傘
   御茶弁當貮荷
   御前付貳荷
   山岡是庵茶箱
 御供壱番
   七名乗船
   御桐油箱一
   供挟箱一
  〆百貮拾七貫目半
 御供二番
   七名乗船
   御先箱二包
  〆百拾八貫目半
 御供三番
   五名乗船
   御召駕
  〆百貮拾貮貫目
 御供四番
   七名乗船(内二名不寝番)
   加篭(藩士二名分)
   御用合羽篭壱荷
  〆百拾四貫目
 御供五番
   三名乗船
   明荷貮疋分
  〆百貮拾貫目半
 御供六番
   四名乗船
   川昇舟印
  〆九拾五貫目半
 用心船壱艘』

冒頭部 「享和元年御船割帳」表紙
写真12 (冒頭部)
御召船の頁
写真13 (御召船の頁) 写真11 (「享和元年
御船割帳」表紙)

 一部を省略して書いたが、先発隊は8人が5艘の高瀬舟に乗っている。荷物は駄荷ばかりである。先発隊の仕事は、行列の休憩場所や宿泊のための本陣との交渉などだと思われる。
 行列の本隊は、殿様を入れて65人が13艘(内1艘は「用心船」)の高瀬舟に分かれて乗船し、高梁川を下っていったのである。
写真14 (用心船の頁)

 高瀬舟で下る場合には、総社市(現在)の湛井で下船して山陽道を通って旅を続けた。(湛井で下船しないで、玉島湊まで行き、海船に乗り換えて大坂や伏見へ行った年もある。)
 本隊の荷物は、殿様用の諸道具類や武器類・御召駕などだが、御台所荷や御納戸荷が目に付く。道中ほとんどの場合、材料を長持に入れて運び、板本と呼ばれる料理人たちが調理して出していたようである。
 新見からの藩士など(上士・下士・卒・人足などを含む)は64人しかいない。この人数では荷物は運ぶことが出来ない。そこで、上陸した地で人足・馬(馬子も)を日雇いにて雇うことになる。先発隊の分も含めて最低に計算しても一日に、人足43人・馬13疋が必要である。実際に雇った人数はもっと多かったであろう。
 高瀬舟で行く場合は、船の費用はいるが、陸上を旅するよりも遙かに楽であり、人夫を雇う心配も要らない。江戸時代を通じて大名行列が高瀬舟を使って継続的に行われた藩は新見藩だけである。臨時に利用した例はあるが・・・・。
 高瀬舟の費用は、16艘(殿様の乗られている御召船・用心船以外の船)の合計が、銀1,883貫目になっている。陸上を行かれるときには、銀で直接支払をしないと街道の本陣・脇本陣に泊まることはできない。殿様に野宿をというわけにはいかないのである。しかも銀での支払になる(金が使われていたのは江戸だけ)。
 大名行列は、楽しい旅ではなかった。食事の材料や多額の現金(銀)を持っての旅だったわけである。
戻る 続きへ
リストマーク 参考情報 この文章は、田仲満雄氏が「備北民報」に平成18(2006)年10月28日付けで寄稿した文章をもとに作成したものである。
 他のページを読む( はじめに ・  ・  ・ 3 ・  ・  ・  )    このページの一番上に
〔岡山県立図書館メディア工房〕
《ご参考》デジタル岡山大百科を使えば、さらに関連情報を調べることができます。
  〔 本を探す ・ インターネット上で郷土情報を視聴する ( キーワード 地図 ) ・ レファレンス事例を探す 〕