二、高瀬舟と大名行列
井上家文書の中で大名行列に高瀬舟が利用されていたことは、すでに論文等で述べられているが、まとまった記述はまだなされていないようである。実際には、井上家文書の「船割帳」では、高瀬舟利用の大名行列そのものが多く書き記されている。
参勤交代の大名行列は、御館(当時は御城といっていたようである)を出発し、武家屋敷や民家沿いの道を通って三日市裏の新見河岸船着場に到着する。そして、行列を崩さないように先頭から指定された高瀬舟に乗船していくのである。
 |
写真4 (行列用人夫差し出し指示書)
井上家文書 ア−01−022 『高瀬船一巻』より |
この時、力を発揮するのが「船割帳」である。
「船割帳」が完成するまでをみてみよう。「何月何日御発駕」という指示書(写真5)が藩の役所から船差役のもとにとどく。これを受けて、船差役は藩内の舟頭を召集し、乗り組む舟頭を決定する。不公平にならないように舟頭に番号を振り、順番に御用を勤める船に割り当てる(写真6)。
 |
 |
写真5 (船割指示書)
井上家文書 ア−01−001 |
写真6 (船頭割当)
井上家文書 ア−10−002 |
藩の役所からの指示書には、「船割帳」そのものが付属している。船割帳へ書き込まれた藩士の名前には殿や様は書かれていない。これに船差役が舟頭名を書込むのである。舟頭は多くの場合、1艘1人だが、増人されて2人となっている場合もある。ときには1隻あたりの費用を書き込む(写真7)。さらに、藩から銀を預かり、この銀の収支帳「御発駕舟頭請拂帳」を用意する。この請拂帳によって、井堰の通船料を支払ったり、弁当やお茶代、人足を雇ったときの人足賃を支払ったりして、最後は藩の役所へ収支決算の報告をするのである。
 |
写真7 (費用の書込) 井上家文書 ア−10−012 |
 |
写真8 (船指役任命書(宝暦四年)) 井上家文書 ア−06−001 |
宝暦4(1754)年に、加登屋甚兵衛は戎屋九郎右衛門に代わって船差役に任命される。戎屋九郎右衛門からの引き継ぎ文書は、高瀬舟の運航に関する定め類などのごく限られたものにすぎず、ほとんどの業務等は、口頭にて伝達された。その中にあって、酉3月の船割指示書が1通のみ伝えられている。宝暦年間の酉年は宝暦3(1753)年である。この年の高瀬舟を利用した大名行列が現存する史料では最古と見られている。
 |
写真9 (戎屋九郎右衛門よりの引継文書袋) 井上家文書 ア−09−007 |
 |
写真10 (宝暦三酉年の現存最古の船割帳) 井上家文書 ア−09−007 |
「船割帳」は、次の年代のものが残っている。
宝暦3 |
関 政富 |
井上家文書 |
ア−09−007 |
宝暦7 |
関 政富 |
々 |
ア−10−008 |
安永6 |
関 長誠 |
々 |
ア−10−012 |
安永8 |
関 長誠 |
々 |
ア−10−007 |
天明4 |
関 長誠 |
々 |
ア−10−011 |
享和元 |
関 長輝 |
々 |
ア−10−015 |
文化8 |
関 長輝 |
々 |
ア−10−017 |
文化10 |
関 長輝 |
々 |
ア−10−018 |
文政8 |
関 成煥 |
々 |
ア−10−019 |
文政12 |
関 成煥 |
々 |
ア−10−020 |
天保14 |
関 長道 |
々 |
ア−10−021 |
弘化4 |
関 長道 |
々 |
ア−10−022 |
万延元 |
関 長克 |
々 |
ア−10−023 |
慶應2 |
関 長克 |
々 |
ア−10−024 |
明治2 |
正月と三月の2回 共に関 長克 |
々 |
ア−10−025・ア−10−026 |
年号のわからないものは |
|
|
丑三月十九日 |
|
々 |
ア−10−008 |
丑三月 |
|
々 |
ア−10−028 |
丑十一月 |
|
々 |
ア−10−030 |
午十月 |
|
々 |
ア−10−029 |
亥四月(安永8か) |
々 |
ア−10−031 |
(年未詳) |
|
々 |
ア−10−003 |
(年未詳) |
|
々 |
ア−10−032 |
(年未詳) |
|
々 |
ア−10−037 |
の24回分が確認できます。 |
|
|
寛政3 |
関 長誠の姫 |
々 |
ア−10−013 |
寛政5 |
関 長誠の子成煥・長吉 |
々 |
ア−10−038 |
明治5 |
関 長克夫人亭以 |
々 |
ア−10−027 |
の3回は、殿様ではないが、行列を組んで高瀬舟に乗船している。お姫様は殿様並の規模であり、若殿御二方は3分の2、御奥様は半分以下の規模になっている。
|