リストマーク  高瀬舟と大名行列 − 6
リストマーク 題名 高瀬舟と大名行列 6
リストマーク 文章 田仲満雄(新見市文化財保護審議会副会長)
五、「絵図」を読む

 高梁川の高瀬舟に関する絵図は、「(三日市図)」(二種二枚)・「(無題航路図)」・「幹流高梁川航路見取図 大正六年八月調」・「(同写し)」・「(清音村川邉村堰見取図)」などが保存されている。「幹流高梁川航路見取り図」以外の図には年号は記入されていない。清音村川邉村堰見取図は、明治28(1895)年12月9日に県に提出した「舟路開通御願」(内容は川邉村地先の水堰石巻きの改良願い)の付図と考えられるので、作成時期も明治28年であったといる。
 ここでは、作成年代未詳の「(三日市図)」と、大正6(1917)年8月調の「幹流高梁川航路見取図」を取り上げることにする。

○「(三日市図)」について
無題(三日市図)その1 無題(三日市図)その2
写真30 (三日市図1)
井上家文書 ウ−01−001
写真31 (三日市図2)
井上家文書 ウ−01−002

 2枚とも、三日市は哲多郡西方村に属している。明治9(1876)年から10年にかけて、「地所官民区別御切替願」(井上家文書)や「物貨船積場拝借御願」を県へ提出し、岡山県はこれを受けて、明治11年3月に「岡山縣指令書」により船着場を官有地とする決定を下している。(井上家文書 イ−13−001 〜 井上家文書 イ−13−018)
 三日市が、西方村から新見村に変更された時期は未だ不明のままである。行政区分の変更は、村役人(戸長)に関わるものであり、船方である井上家文書の中に含まれていないのは当然だろう。
 三日市の2枚の図には、どちらにも2か所の船着場、船着場のすぐ上流側には大きな露岩、2つの井堰が記入されているが、「ケレップ」と呼ばれている「水制」は記入されていない。
 上流側の井堰は、川東の用水取り入れ用である。下流側の井堰は金谷への用水取り入れのためのもので、図にはないがどちらにも船通しが設けられている。写真31では、高梁川の主流は川幅の中心よりも西岸金谷村寄りに流れている。このときには、船着場は露岩や中州によって流れが押さえられている。この時点では、水制(ケレップ)は必要ない。ところが、洪水など大水によって流れが変わってくる(写真30)と高梁川の主流が船着場を直撃する事になり、水制(ケレップ)が設置されたものと思われる。どちらの図にもケレップはない。
 紙質などからみても、2枚の三日市図は、県への「地所官民区別御切替御願」あるいは「拝借地御願」に付属する図面ではないかと思われる。高梁川の主流路が変更したのは、明治9年1月に岡山県へ提出された「高梁川筋舟路修繕御願」などからもわかる。このことから写真31の図は明治8年に、写真30の図は明治9年に作成されたものではないだろうか。

○「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調」(写真32)について
写真32 (「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」) 井上家文書 ウ−01−006

この図は、巾28センチの半紙を横長に貼り合わせその長さは14メートルに及ぶもので、金谷井堰から廣石橋下のこぶ岩の瀬まで描かれている。写真32の凡例に見られるように橋梁・巻石・水制・枠(木枠)が大小記入されている。ところが、本町裏から三日市裏にかけてのいわゆる「新見河岸」には石巻水制(ケレップ)は書かれていない。昭和9(1934)年の大洪水、その後の河川復旧工事により新見河岸も元の姿に復元された。カツタ写真館所蔵の昭和9年ごろ撮影された写真(新見河岸が写っている)の写しを見たところ、2つの現在のケレップと同じものが写っていた。この(現地では、復元されていないケレップの痕跡を確認することができる。これは昭和9年の復旧工事で復旧されなかったものと思われる。)これらのことから、新見河岸のケレップは、大正6(1917)年8月以後昭和9年9月の大洪水以前の間に設置されたものと考えられる。
 「幹流高梁川船路見取図」には、小さな水制まで書き込まれているのに、三日市裏のケレップが書かれていないことにより、大正6年8月には存在していなかったことを確認することができるだろう。この図の高梁川は、直線的に描かれているが、実際は、曲がりくねった川(写真33 前出の無題航路図の一部)で、瀬や急流が多く存在し、それを乗り切るために水制(ケレップ)・石巻・木枠などによって航路を確保していたのである。この航路見取図は、川掘工事費申請に付された図であることが、図中に記入された作業出願石巻・仝木枠・浚渫・航路変更・岩石切取・転石採取などわかると同時に、川掘りがいかに大変だったかうかがい知ることが出来るだろう。

写真33 (無題航路図の一部) 井上家文書 ウ−01−004

次に当時の写真等をいくつか紹介する。

写真34 (難所の1つ 廣石付近) 写真35 (難所の1つ 井倉橋付近)
写真34・35 引用:『阿哲郡誌 上巻』 社團法人阿哲郡教育會
写真36 (綱曳き中の高瀬舟) 引用:『阿哲郡誌 下巻』 社團法人阿哲郡教育會
写真34・35は、新見からの上り・下りの難所を写したものである。写真36は、岡山県新見市草間谷合(旧草間村)の船着場前の瀬を綱曳き中の高瀬舟である。何艘かの高瀬舟の船頭が共同で綱曳きを行い、順次上流へ船を曳き上げていく。綱曳き中には、一人の船頭が船の舳先にて船の安全を確保する。船に綱を結び付ける位置は、舳先に一番近い前引張りに付ける。さらに、瀬がきついときは、舳先のあけられた「せもち穴」に横に差込まれた竹を、水の中に飛び込んだ船頭が肩で押し上げていく。高梁川や旭川の上流域の船の綱曳きは、写真36の通りである。
 高梁川・旭川の中・下流域の船の綱曳きは、関東・東北の高瀬舟と同様に、帆柱の3分の1ほどの長さの棒を帆柱穴に立てて、これの上と下に綱を付けて綱曳きをしたようである。

最後に、「綱曳き中の高瀬舟の図」(版木)を紹介する。
写真37 (版木1)
写真38 (色抜きした版木1)
写真39 (版木1の裏面)
写真40 (版木2)
写真41 (色抜きした版木2)
写真42 (版木2の裏面)

これらは、天保11(1840)年に勝山(現在は、真庭市勝山)の彫り師が彫ったものである。高瀬舟は、版画(浮世絵)の風景画や名所図などの一部として描かれることはあるが、高瀬舟そのものをテーマとし、しかも綱曳き中のものとなると見たことがない。版木ともなればなおさらのことである。全国的にも珍しいのではないだろうか。
 この版木は、真庭市落合地区の民家に保存されていたものである。井上氏の親戚関係であることからこのたび公開に至った。
 版木の上に和紙を置き、「乾拓墨」でこすって作った乾拓を撮影し、その画像を左右反転させたものが写真43・44である。
 


写真43 (乾拓・左右反転=版画と同じもの)
写真44  (版木1の乾拓後に左右反転したもの=版画と同じもの)

なお、この図の詳細については、今後の研究を待ちたいと思う。

 以上、高瀬舟を使った新見藩主の参勤交代時の大名行列から、江戸時代から昭和初期までの高瀬舟運航管理・航路維持に至るまで巾広く保管されていた史料について備北民報に掲載した文章を一部手直ししたものを紹介してきた。

文責:岡山県新見市哲多町本郷 田仲 満雄
史料所蔵・史料公開:岡山県新見市新見 井上 隆生

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リストマーク 参考情報 この文章は、田仲満雄氏が「備北民報」に平成18(2006)年11月21日付けで寄稿した文章をもとに作成したものである。
リストマーク 参考文献 『阿哲郡史 下巻』
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