明治時代の印刷物 − 文明開化の頃のデザイン −
リストマーク 引札編〔福渡・建部・金川〕
 下の図は、大正7(1918)年発行の古地図である。各引札〔ひきふだ〕に住所(福渡〔ふくわたり〕:真ん中上側、建部〔たけべ〕:福渡の下側、金川〔かながわ〕:真ん中下側)が出てきたときの参考としてほしい。

(『岡山県郷土地図』岡山県教育会/編纂(1918)《岡山県立図書館所蔵》の一部)
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 福渡・建部・金川は、古くから旭川の水運により開けてきた。また、岡山や津山などとをむすぶ中継点としても栄えてきた。
 そして、明治31(1899)年に中国鉄道(現在のJR津山線)が開通し、それぞれが鉄道駅の場所としてさらに発展していく(ただし、建部駅の開業は、明治33(1901)年4月から)。
 なお、福渡と建部は、平成17(2005)年9月現在は、建部町という1つの町に属すが、地図の区切り線からもわかるように、昭和42(1967)年の合併まで別々の町であり、また、江戸時代にさかのぼると、福渡が美作の国、建部が備前の国に属していた。金川は、御津町の中心地であったが、平成17(2005)年3月に合併し、岡山市となった。
 地元の方の話によると、現在はのどかな福渡から落合に至る道(現:県道落合建部線)や建部から高松稲荷に至る道(現:県道建部大井線)も、かつては、ひっきりなしに人の往来があったとのことである。


** 収録画像一覧 **


福渡その1

福渡その2

建部その1

建部その2

建部その3

建部その4

建部その5

金川その1

金川その2

金川その3
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『引札』とは
 江戸時代から大正時代にかけて流行したもので、現在の広告チラシ・ポスターに近いものである。当時の商店の広告を分類すると、大きく分けて、看板と引札があげられるが、看板がその店へ来た者か近くを通る者にしか見られない固定広告であるのに対し、引札は、商店がPR用に配ることにより、新規の客をとらえるための積極的な案内広告として使われていた。なお、明治時代に入ると、全国を対象とする広告手段として新聞が発達してくるが、地元の客を相手とする商店は、引き続き引札を使用していた。

『津山往来』について
 津山往来の確かな記録が伝わるのは江戸時代になってからであり、それ以前の状況は、よくわかっていない。津山往来の呼称は明治以降で、それまでは特に定まった名称はなく、岡山側からは、「作州往来」「作州道」、津山側からは「備前道」などと呼ばれていたようである。
 江戸前期の地誌によれば、池田光政の入封以降、岡山から辛香峠までの道程が変更されたという。江戸時代の往来は、金川から箕地峠〔みのぢとうげ〕を越え、建部陣屋《詳しくはこちら》に至りそこから八幡〔やわた〕の渡しをとおり、福渡に入り、さらに石引乢〔いしびきたお〕を越えて神目〔こうめ〕に至る道程であった。ちなみに、箕地峠、八幡の渡し、石引乢は難所であった。この難所を避け、平地を抜ける現在の国道53号線のルートが完成するのは明治20(1887)年であり、これに伴い津山往来は、県道(明治9(1876)年に指定)から国道に昇格する。この路線の大幅な変更は、建部陣屋とともに街道筋にあった中田村の建部新町、上之町、下之町に対して、後の中国鉄道(現津山線)の開通とともに大きな影響を与えることになる。

※参考文献
 『岡山県御津郡誌』 御津郡教育会 (1923)
 『引札 絵びら 錦絵広告』 誠文堂新光社 (1977年)
 『角川日本地名大辞典』角川書店(1989年)
 『建部町史 通史編』 建部町 (1995)
 『津山往来 岡山県歴史の道調査報告書第二集』 岡山県教育委員会 (1992年)
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〔岡山県立図書館メディア工房〕
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